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エチオピアのバー

ウガンダでの経験を書いているうちにエチオピアのことも思い出したので、エチオピアへ世銀から出張した時のことを話しましょう。だいぶ昔のことで、たぶん1990年代、今はずいぶん経済成長も成し遂げていますが、その当時はまだ独裁的社会主義の国で、世界でも有数の貧困国でした。ウガンダと同様当時エチオピアの最重要輸出産品はコーヒーで出張もこの産業を調べることでした。エチオピアのコーヒーはとてもおいしく、今でもその時飲んだコーヒ-を覚えています。

仕事で首都アジスアベバから車で5時間ぐらいかかるコーヒー産地、確かシダモだったと思いますが、へ行くことになり、20代後半の政府職員の男性と一緒に行きました。(ここではAさんとしておきましょう。)シダモは小さな町で昼は死んだようになっていて、中心街も昔日本にもあった小さな雑貨屋みたいのが数件あっただけでした。コーヒー生産者や地方政府の職員とも色々話したのを覚えています。

仕事を終えて、ホテルに戻って一休みしましたが、このホテルというのが、まったく殺風景なものでただベッドが置いてあるだけなのです。夕食にでも行くかと思い、Aさんを誘い、外に出てびっくり。ナ、ナ、ナント(このマガジンでは初めて登場。)外には電気のついた店がたくさんあるのです。そのうちの一つに入ってAさんと食事を済ませ、外に出て気が付いたことはほとんどの店がバーなのです。Aさんに連れられて一軒の店に入りました。30人ぐらいが入れるこじんまりして、こぎれいな、明るい店でした。4人が座れる小さなテーブルと椅子がいくつかあり、その一つにAさんと座りました。ほかにはエチオピア人が二人ばかりいたと思います。と、驚いたことに若い娘が出てきて一緒に座るのです。このような形式のバーはアジア以外には初めて見ました。ビールを頼みましたが、確か小瓶一本日本円で50円かそこらでバカ安かったのを覚えています。

さて、テーブルに来た娘さんですが、あまりすることがないのです。日本の様にビールを注ぐこともないのです。というのもコップなどというしゃれたものは出てこないのです。瓶から直接ラッパ飲みです。することといえば、濡れたテーブルを軽く拭くという作業です。日本の高級な銀座当たりのバーならしゃれたいかにも高そうなフランス製のハンカチのようなもので、ちょっと色気のあるポーズをとって、(これは多分このようなしぐさを叩き込む研修があって、元ナンバーワンの大先輩から教えてもらったのでしょう。)ニコリとほほ笑んで、拭くと思うのですが、ここはエチオピアの田舎町です。そんな研修など想像もできないのです。また、しゃれたハンカチなどなく、これには私も驚いたのですが、トイレットぺ-パーを小さくたたんだ奴が出てくるのです。なんか不憫というか、銀座のキレイどころに見せてあげたいシーンでした。

Aさんに通訳してもらって、着ているものの話をしたのですが、(日本男児、私が言える女にもてる方法は、女の着ているものを褒めることである。単にキレイだねではなく表現が複雑になればなるほど、効果は高い。勉強しろ。)そこで分かったのは彼女らが着ているものはイタリア製の古着で相当大量に定期的にイタリアから来るらしいのです。それを彼女たちは日本円で500から1,000円程度で中間業者から買うのです。シダモにもそのような業者がいるという話でした。まじめな話、この話はあとで、エチオピアのいろいろな商品の流通を調べるうえで役に立ちました。

ほかのバーでも経験したことですが、定期的に、客でない人が入ってくるのです。小さな車を四つ付けた板に乗って、たぶん地雷で足を失った負傷兵が入ってくるのです。例の娘さんは慣れたもので、さっと立ち上がって負傷兵に近づき、小銭をそっと渡すのです。これが一晩に2,3回起こるのです。正直言ってあまりいいものではありませんが、エチオピアの現実を見せつけられたようになります。

当時のエチオピアは貧乏で何もないようなところでしたが、ビールの流通はしっかりしていたのです。バーにはいつもビールがふんだんにあるのです。ほかの飲み物や食べ物はありませんが。バーに行ってから車であっちこっち行ったとき、気を付けて見ていると、ビ-ルを積んだトラックをよく見かけるのです。数少ないトラックの多くは軍需品とビールを運んでいたのです。民間の経済活動は相当制限されていたのですが、「国民にはビールを飲ませて文句を言わせないようにしよう。」という政府の魂胆がはっきりわかるようでした。

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