KULCHAストーリー①
2020年に石垣島へ移住した藤田理生(ふじたみちなり)です。
みんなからはみっちーと呼ばれているので気軽に「みっちー」と呼んでください。
今日は、僕が昨年より始めたKULCHA(カルチャ)というお店について、なぜ始めたのか?そのストーリーを書いてみたいと思います。
なぜわざわざそんな昔のストーリーから書いていくのかといえば、それがKULCHAという場所づくりに繋がっていると思うからです。少し長くなりますが、良かったらお付き合いください。
ぼくの生まれ育った場所と子ども時代
僕は、昭和60年6月5日に新潟県十日町市(旧中里村)という日本有数の豪雪地帯に生まれました。
冬には一晩で雪が1m以上も積もることがある山で囲まれた山村地域です。
冬は雪一色ですが、春~秋にかけてはまた違う自然の美しさを見せてくれます。
田園風景が広がり、四季折々の自然の美しさやその季節にとれる野菜、特に魚沼産コシヒカリは全国的にも有名ですし、おいしい日本酒も豊富です。
ぼくは、大学に入学する18歳までこの地で生まれ育ちました。
部活動を始める中学生までは、とにかく自然の中で遊ぶのが大好きで、クラブ活動や友達と遊ぶ予定のない日は外で日が暮れるまで一人で遊んでいた記憶があります。
田んぼの脇を流れる川に葉っぱを流して追いかけたり、自転車であてもなく夕焼けの農道を走ったり、冬は雪の中にトンネルを作ったり、秘密基地のようなものを作ったり・・・
友達といるときは、川に遊びに行き魚を取り、焚火をし、木に登り、毎日がまるで冒険のようでした。自然の中でただ過ごしているだけで、喜びと安心感に包まれるような感覚があったのだと思います。
自然の中で遊ぶことが大好きだったぼくでしたが、どこかいつも寂しさを抱いていました。
友達にも恵まれていたし、家族からも愛を受けて育ったと感じています。
それでもどこか心の奥で寂しさ、孤独な気持ちを感じていたのです。
実はそんな風に感じる人はぼくだけじゃないんじゃないでしょうか?
人は人と出会い、関わることで喜びや幸せを感じ、逆に悲しみ、怒り、寂しさも感じます。
僕は子供時代、自然によってたくさんのポジティブなものを受け取ることができましたが、心の奥にある寂しさや孤独感は埋めることができなかった、どうやって受け入れたらいいのか分からなかったのかもしれません。
高校~大学~青年海外協力隊としてモルディブへ
少し時間を進めます。中高は特に考えることもなく地元の学校へ。部活動に励みます。
そして大学受験を控えて、必然的に今後の進路を考える必要が出てきました。
ぼくは、小学校5.6年生時の担任の先生が大好きでした。それは彼女が創ってくれたクラス、そこで過ごす時間が心地よかったからです。
真冬も半袖短パンで、お調子者で、ムードメーカーで、おもいっきり自分を表現することがその頃できていたのです。
だから、僕もあの先生みたいに子どもたちが自由に表現できる居場所を創りたい。今思い返せばそんな想いがあって先生になるという夢を持ったのだと思います。
全国出場を目指し、高三の秋までサッカー部を続けましたが、県大会であっけなく敗退・・・
そこから受験勉強を本格的に初め、運もあってかセンター試験で中々良い結果を出すことができて、晴れて国立の教育大学に進学できました。
(当時親に金銭的な負担をかけないように国立に行くのがぼくのいちばんの優先順位でした)
初めて親から離れて、自由を謳歌しすぎて、部活とアルバイト以外は毎日遊ぶ日々。
気づけば、大学3年となり、就職先を考えるタイミングが訪れていました。大学の友人たちのほとんどが先生になる道を選び、試験に向けて勉強を始める中、ぼくはというとこのまま先生になることになんだか気持ちが乗りません。
そんなある日一個上の先輩の部屋である本に出会いました。バックパックを背負って、世界を回るある青年の話。彼はピラミッドに無許可でよじ登ったりとにかく破天荒で、めちゃくちゃなんだけど、それが僕のハートに響いたのです。
「そうだ、俺はまだまだ世界のことを知らない!もっと広い世界をみてみたいんだ!」
そう決めて、アルバイトを増やし、お金を貯め始めました。
ただ、そんな僕を見ていた仲の良い友人が、助言をします。「みっちーは危なっかしいから、どっかの国で何かに巻き込まれて危ない目に合いそう」なんだかその言葉が、心のどこかに残っていたある日。
別の友人が青年海外協力隊というものに応募すると言い出しました。アルバイトも一緒で、よく彼とは国内をヒッチハイクや電車で旅していたので、<青年海外協力隊>というものに興味を抱きました。
「世界で困ってる人の役に立ちたい!!」
何にも分からないけど、その気持ちだけで、応募してみることにしたのです。
確か北海道にフェリーで旅に行く前日に、応募のための課題が全く分からず、図書室から借りた本を引用しまくって徹夜でつくり、ダメもとで申し込みました。
・・・そして、またまた運よく?青年海外協力隊に合格したのです。
行先は、第3希望まで応募時に記入できましたが、決まった派遣予定の国は当時聞きなれない国名でした。
モルディブ共和国???
翌日図書館のパソコンで調べていると、どうやらハネムーンで有名な国みたい。海が飛び切りきれいな島国。ぼくがこの国へ??とにかくよく分からないけど(笑)今更いかない理由はありません。正直どこの国でもよかったのです。
ちなみに言うと当時パスポートも持っていませんでした。つまり初海外がモルディブでの活動だったのです。
モルディブでの苦悩の日々・・・
モルディブはインド洋に浮かぶ約1,200のサンゴの島からなる国です。
日本からは主にシンガポールかスリランカ経由で10時間ちょっとで行くことができます。200以上のリゾートホテルがある場所。きっとみなさんこんなイメージですよね?
もちろんこんなリゾートがたくさんあるのですが、僕が派遣されたのはRasdhooという現地の人々が暮らす1周1kmちょっとの歩いて20分くらいで回れてしまう小さな島。
ぼくはそこにある小中学校で現地の子どもたちに体育と図工を指導していました。
赴任してから、孤独感で苦しい日々を過ごします。言語も文化も考え方も違う国で、チャランポランな大学生活を過ごした僕が、学校で教えるのです。
それは当然上手くいきません。学校では全然うまくいかないし、学校の先生とも打ち解けられず、苦しい毎日が続きます。またモルディブは100%ムスリム(イスラム教徒)の国なので、現地の島では一切お酒は飲んではいけません。基本的に島からも半年に一回程度しか出ることができませんでした。
「早く日本に帰りたい・・・でもこのまま日本に途中で帰るのは絶対嫌だ・・・」
そんな葛藤を繰り返しながら、毎日を悶々と過ごしていました。島の周りを囲む海は、本当に美しかったですが、それを分かち合う人がいないと、1か月もすると慣れてきて、それだけでは心は満たされなくなってきます。
そんな時にぼくを支えてくれたのは、現地のお母さんでした。運動不足の現地の女性に向けた運動クラスを開催していた僕は、現地のお母さんと仲良くなり、彼女は毎朝ぼくに朝食を振舞ってくれました。
「Micchiは息子のようなものだから」
ってなんの見返りも求めずにただ愛を向けてくれた。
ぼくにとっては、その朝食を食べる時間が、心から安心できる時間であり、居場所だったのです。
(今文章書いていて、あー本当にそうだったんだって泣きそうになります…あれから日本に帰って携帯を壊したりして連絡先が無くなって…まだ元気にしてるかな。会いに行きたい…)
宗教も、生まれ育った環境も、考え方も何もかも違うけど、でもそれを超えたつながりを感じてくれて、愛を向けてくれた。今思い返せば感謝しかありません。
日本帰国と就職
なんとか・・・なんとか・・・2年間を過ごし、日本に帰る日がきました。正直に言って、モルディブでの2年間の活動で残せたことはあんまりなかったかもしれません。むしろたくさんのものをぼくに与え、気づかせてくれたばかりの日々でした。
日本に帰国し、ぼくは関東で就職しようと決めました。
「ここから先生になるのはなんだか違う・・・だからと言って何をしていいのかは分からない。でももっと誰かの役に立てるような存在になりたい。」
そんな気持ちで、人生初の就活の末に、埼玉県川口市にある物流会社に就職することになります。
そこで現場仕事をただがむしゃらにこなし、営業に移ってからも飛び込み営業やテレアポなどどんなことでも一生懸命にやっていたと思います。素晴らしい上司や同僚のおかげもあって、結果もちゃんとついてきて、会社からも評価されてきましたが、でも心からの満足感は感じることが出来ずにいました。
・・・
それからしばらくして、東日本大震災が起こるのです。
たまたま僕の出身校である小学校で青年海外協力隊の経験を話す機会を頂いたタイミングで地元に帰っていた時です。
午前中の授業を終え、午後実家でゆっくりしていた時に突然の揺れが襲います。そしてそこからニュースでは地震、そして津波の生々しい映像が映され続けたのです。
関東に戻り、また元の仕事を始めますが、心に大きな疑問が残り続けます。
「このまま今の仕事を続けていいのだろうか?このままの日本でいいのだろうか?ぼくは何をしたいのか?どんな世界を創っていきたいのか?本当の幸せとは?」
そんなことを考えるようになり、積極的に自然環境のことや生き方について考えるワークショップやイベントに顔を出すようになります。
そんなタイミングで実家に帰り、父と二人でお酒を飲む日がありました。記憶の限り、僕が忙しかった父と生まれて初めて深く話し合えた時間だったと思います。
話せば話すほど、ぼくがこれからやりたいことと、父がやりたいことが重なり、気づけば酔いも追い風となり、意気投合。一緒に地元をもっと素晴らしい場所にしていこうという話になり、地元に戻ることを決めていました(笑)
我ながらなんて単純なやつなんだって驚きます!
地元に戻り夢と葛藤を抱えて生きる
父は建築会社の社長です。祖父が始めた会社で創業60周年を迎える地域に根ざす会社。
僕は結果的に?当然に?後継者としてそこに戻ることになったのです。
父と意気投合はしましたが、建築のこともど素人だし、何より意気投合したのは、地域の未来のビジョンに惹かれあったのであって、会社のことは本当に何も知らないままに入社しました(笑)
どこの田舎もそうですが、少子高齢化で、若者は減り続け、必然的に住宅業界も厳しい状況になりつつある状況。
これからの会社のことを考えなくてはいけない。僕はその立場にある。でも本当はもっと自分らしく生きたい。仲間と仕事をするのは楽しいけれど、祖父のようなリーダーシップで社員を束ね、引っ張るようなことは興味もないし、できない。僕は僕の想う世界を、仕事を通して作っていきたい。
仕事ではできない僕の中にある想いをカタチにするために、合間を見て、友人と集まりイベントを開催したりもしました。地域が培ってきた知恵や伝統を未来に繋ぎたい、そんな知恵を持つ方々と繋がりを深め、自然の中で五感で感じ、楽しさや喜びを世代を超えて分かち合いたい。
そんな気持ちで始めた野良キャンプというイベント。
4年間毎年開催しましたが、ぼくも仕事が忙しくなり、大掛かりなイベントとしては継続が難しくなってきました。そして何よりも、単発のイベントだけでは、活動も、人々に対する影響度も継続出来ないということを実感しました。
また、会社の中でも、自分の価値観が合う仲間と、コーヒーイベントを毎月開催するようになりました。
会社での開催ではあるので営業の一貫という部分はあるけれど、
このイベントを通して、心がほっとする時間を、誰かと心地よく話ができる時間を提供したい。暮らしのこと、生きることを考える時間になったらいいなというのが根底にありました。
何より大好きなメンバーと毎月一回イベントができるのが本当に楽しくて、この時間を一番楽しみにしていたのはたぶんぼくだったんじゃないかと思います。
仕事においても3年目くらいから建築に関する知識や経験も増えて、お客様も増えていった。そのくらいの時期から、
「自分がこの会社を継ぐしかないのかな」
と自分がこの会社を変えて行くぞ!という気持ちと、半分は諦めの気持ちで営業のマネージメント、経営にも少しずつ関わるようになり・・・
でも、会社がこれまで積み重ねてきたもの(実績、文化、現在働く方々、地域から求められるものetc...)、これからの方向性(もちろん自分が変えられる可能性があるのだけれど)、ぼくがこの会社を継ぐというのが、どうしても心の奥では受け入れられていなかったのかもしれない。
ぼくの提案でコンサルに入ってもらい、会社を本格的に改革していこうと決意を決めて動き出していましたが・・・
そこから約1年後、ぼくは会社を辞める決意をし、2019年6月末で退職。
ぼくの中に当初からあった押し殺していた何かが大きくなり、きっかけもあって、会社を辞めることを決めました。
そして、北海道で8ヶ月間を過ごし、石垣島に移住してきました。
辞めるときはどこか逃げるように、辞めてきてしまいました。そこに対しては後悔もありますが、でもあの時はそういう辞め方しか出来なかったようにも思います。その分周りの方に迷惑もかけてしまいました。
それでも、自分勝手なのは承知で大好きな地元でもまた何かやりたいという気持ちはずっとあります!
長くなりましたので・・・
石垣島でのKULCHA(カルチャ)を始めることとなったきっかけや、これから創っていきたい世界については次の記事で書いてみたいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございます!
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