春が2階から落ちてこなければ
語るべき出来事そのものがなければ物語は始まることも終わることもない。感情が動かされることもない。
春も夏も秋も冬も、何も落ちてこなければ良い。
春。出会いと別れの季節。
どちらかと言えば春の喜びの側面を享受してきたこれまでだった。
梅も桜も咲くし気温は暖かいし睡眠の質も良くなる。
人見知りのくせに新たな人間関係をほぼほぼ無の状況から構築していく過程が好きだし、何より気の合う人間や尊敬すべき人間との出会いも生じる。
自分の考え方を変えてくれる人が好き。通底しているナニカが似ていても必ずそこに在る差異をみせつけてきては思想を行動を変革させてくれるような人が好き。脳内こりかたまり己の思想カンジガラメ人なので。
だから春が好きだった。春は出会いの季節だった。
もちろん、別れ、の側面を無視しているわけではない。ただ、大した問題にはならないソレだと認識していた。
人との別れは距離空間的な問題ではなく、精神的選択的な問題だと考えていた。関係を続けたいのなら連絡をとり続ければいいし、面と向かって話をしたりお酒を飲んだりしたいのなら時間を作って会いに行けばいい。物質的には豊かである現代において、手段だけは豊富な現代においてかきくらすような別れなぞないと考えていた。だから愛知から奈良に向かうときも、奈良から東京へ来るときも空間的別れに頓着しなかった。その相手が友達でも恋人でも恩師でも同じだった。実際、住処を移した後でも交友が続く人がいれば、それこそ正式な別れが訪れた、いや選択した人もいた。
つまり別れなんて選択できるものである以上、ただ春が来るからといって距離的に離れるからといって悲しまなくてもいい。そう考えていた。そう信じていた。その方が幸せだったのかもしれない。
春が嫌いだ。
春は人との距離を否応なく遠ざける。どうしようもなく引き裂く。春なんか来なければいい。しかし、春という季節は必ずやってくる、ある種の暴力性を帯びて。
物質的な距離が開いても、精神で接続し続けさえいれば悲しむべき別れは起こらない、なんてとんだ誤謬だった。かつて掲げた己の理論はもはやただ幼稚な理想論にしかみえない。空虚な自己欺瞞などすべきではない。自分に誠実でいたい。
離れたくない人ができた。
すこしでも長く、たった1分でも長く同じ時間を過ごしたいと思える人の存在は、ただそこに在るだけだった空間的な距離をおぞましい隔絶に変えた。
長々と書いているが、有り体にいえば、寂しいのだ。すこしも離れたくない。いつだって近くにいたい。
しかしそれは叶わない。
考え悩んだ末にした決断を簡単に棄却してしまいたくない。
これは決意表明である。
僕は、諦めない。絶対に。
この別れは悲しい。空間的な距離は埋められない。そこには時間さえ流れないかもしれない。でも、でも、それでも彼女の夢を応援したい気持ちと一方的に押し付けた夢と彼女が語ってくれた言葉に存在時間空間を超えてもらおう。いつもどこにいても飛翔しようとする彼女さえいれば、それだけでいい。それだけで、僕も頑張れる。彼女が臨む夢の途中に、そして望んだその先に必ず僕も交じり合おう。
大嫌いになってしまったこの季節を、いつか、晴々しい心持ちで迎えられる日がくることを信じる。彼女がみせてくれる全てを信じる。語るべき出来事は、彼女の新しい物語は始まったばかりだ。
だから、やはり、春には2階から落ちてきてもらうことにしよう。