2011年3月11日およびその年の春のことを書き残す

東日本大震災から10年。twitter上には10年前を思い返すツイートがちらほら。そういえば自分は……と思い返すことしばしば。私も回顧ツイートしようかと思ったのですが、書き始めると長くなりそうなので、noteに綴ることにしました。


歩いて帰社、歩いて帰宅

地震発生時点、私は得意先回り中。文京区江戸川橋界隈にある得意先のビルの1階ロビーで打合せをしていました。ズンズンッという縦揺れに続いて、ビルごと揺さぶるような横揺れが数十秒続く中、2日前に津波注意報が出た三陸沖の地震を思い出していました。ロビーの奥から、上階で働いていたとおぼしき人が数名「いやー、すごい揺れたよー」などとぼやきながら出てきました。

私は胸ポケットから携帯ラジオを取り出して、目の前の得意先担当者やロビーに居合わせたみんなに聞こえるようにスピーカー音量を最大にしました。アナウンサーの緊迫した声。震度、マグニチュードの推定値、津波警報。2日前のより大きいのが来たな、と思い至りました。

当時のことを思い出す助けになったのが、過去のツイートをブログっぽくまとめてみられる“twilog”(2011年3月11日のログ)。地震発生直後、ラジオで聴いた内容をツイートしていました。

とりあえず、新年度に向けて作る物の打合せを済ませて、江戸川橋から次の得意先へバスで移動。バスに乗る前に上司へ電話して、無事を伝えたような気もします。15時過ぎの時点で地下鉄が止まっていたんでしょうが、最初からバス移動を決めていたので、駅には立ち寄らず。路線バスはほぼ時間どおりに動いていました。バス停5つ分くらい移動して、2件目の得意先へ。全員無事。大地震直後でお互い興奮状態というか神経が高ぶっているというか、話す声もやや大きくなっているような気がしました。

ここから帰社する予定だったか3件目も行く予定だったかは覚えていないのですが、茗荷谷から本郷にある3件目に向けて、地下鉄2駅分を歩きました。

文京区役所と長蛇の列の春日駅前バス停を通り過ぎ、本郷にある得意先(3件目)へ。ちょっと大きいビルなのでいつもはエレベーターで上階へあがり、階段で下りながら各フロアへ挨拶していくのですが、電気は通じているもののエレベーターが止まっているので、階段で上階へ。先述の興奮状態のまま、いつもより声を張って「こんにちは」「お世話様です」と声を掛けて廻ります。

仕事の材料や書類などを各フロアで回収して営業カバンに詰めて、……歩いて帰るのにわりとボリュームたっぷりだなと思いながら、本郷の3件目を後にして、西日暮里の会社へ歩き出します。

ラジオを聴きながら文京区内を北上。たしかこのツイートは根津~千駄木あたりを歩きながら入力したような、おぼろげな記憶があります。いつもは営業車で駆け抜ける道、歩道がこんなに混みあうことないなと思いながら、西日暮里の会社まで帰着しました。

帰りの電車はなかなか動きません。外に出ても寒いばかりなので、会社で粘ります。ラジオやtwitterで、都営地下鉄や相鉄の運転再開をチェックしています。私と同様に得意先回り中で千代田区から帰ってこられない人がいるとかで、営業車を出して迎えに行ったものの、電車が止まってる都心の道路は大渋滞で、1時間で1kmも動けないとか。考えることは皆同じですね。

帰りの電車は今夜の運転再開を断念と発表がありました。職場で夜明かししようかとも思いましたが、職場から足立区の自宅まで、早足で歩いて1時間強ですので、(上のツイートから推測するに)本来の終電時刻である24時半ぐらいに会社を出て、歩いて帰りました。

妻は仕事関係の打合せで池袋にいて、地震発生時はビルの上階で会議室の長机にしがみついてしのいだとか。本属の職場(恵比寿)へ戻るわけにもいかず、大行列に数時間並んで西新井行きのバスに乗り込み、運良く座って帰れたそうです。都営バスは前から乗って後ろから降りる決まりなのですが、来るバスすべて満員でしびれを切らした乗客が後ろから乗ろうとする(しかし超満員で乗れない)という状況がバス停ごとに再生され、しかも道路は大渋滞で遅々として進まず。平時の何倍も時間をかけて、終着の西新井駅まで走り切ったそうです。運転手さん、お疲れ様です。

歩いて帰り着いた自宅室内は、棚に置いた物が少々床に転がっている程度で、ありがたいことに実害はほとんどありませんでした。前年引っ越してきたとき、大きな本棚をネジと金具で固定していたのが功を奏したようです。電気もガスも水道も供給されていたので、ゆっくり休むことができました。やはり自宅へ帰ってきたのは正解でした。

計画停電

震災発生の3/11が金曜日だったので、土日は自宅で神経を落ち着けることに専念できたような気がします。それでもテレビは刺激的な映像を流してくるので、つけるのはラジオだけ。

福島第一原発がまずいことになってる、と明らかになったのは土曜日でしたっけ。その翌日、日曜日の夕方だったか「輪番停電」「計画停電」が発表されて、東京23区以外で電気を少しずつ止めると。しかしよく見ると23区内でもちょくちょく止めるらしい、と。

結局本社(=自分の職場)は輪番停電を免れたのですが、工場が対象にかかってしまいました。3月は年度末、印刷会社が一年で最も忙しい時期なのですが、停電やガソリン不足に加えて製紙工場や紙問屋の被害で生産がままならず。

3/14(月)からの1週間は、首都圏の電車が満足に動かない状態。2~3割程度しか列車が動かないとか、ある路線が「15時以降全面運休」とお昼に発表したり、寒くて電力需給が逼迫しているからと政府から鉄道会社へ減便要請が出て夕方の駅や列車がパニックになったとか。私が通勤に使う路線も計画停電エリアを走るので、運休対象に。そんなときは自転車で会社まで通っていました。

出社しようにも電車が走らない、出社しても半日工場が止まる、ガソリン不足だから車で得意先回りできない、でも仕事は回っている、だけど原材料は流通しない……という(毎年2~3月は仕事の余裕がなくてカツカツなのですが、この年はいつにもまして)カツカツな状況だったような気がします。

電力不足に対する節電協力を、エヴァンゲリオンの「ヤシマ作戦」になぞらえたツイートも、この頃でしたっけ。

お出かけ

地震発生から1週間経過しての週末。流通の滞りはなかなか解消されず近所のスーパーは相変わらず品不足ぎみ。土曜日に気分転換を兼ねて横浜中華街へ、中華饅頭や月餅を買い込んだとあります。京急の快特はビュンビュン走っていた一方で、東横線は全便各駅停車だったんですね。

4月に入って、節電のために電車の本数を減らす措置(日中は千代田線~小田急線の直通列車を止めるとか)が常態化した中、夏の電力不足をどうしようという話に。新交通システムの日暮里・舎人ライナーは完全空調で、高架線を走ることもあって窓は開けないことになっているのですが、結局この年の夏も窓を開けずに済ませました。……しかしながら昨今のコロナ禍の換気ムードでとうとう窓が開けられまして、10年前より今の方がある意味深刻な事態なのかもしれません。

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