love for fellow humans
ひと月前の下書きに残っていたので供養
*
今日友達と話したこと
友達と道を歩いている
友達が転びそうになる
わたしは「危ない」と言う
友達は転ばずにすむ
「危なかった、ありがとう」と言われる
友達が転ばなくて良かった
でも友達が転ばないように声をかけたのは別にわたしが優しいからなんかじゃないのかも、とふと思う
「友達が血を流さないように」「痛みで泣かないように」という原理に基づいた行動なのは確か、しかし行動原理の矢印は友人ではなくわたし自身に向かっている
「『わたしが』友人が血を流しているところを、痛みで泣いているところ」を見たくなかったから声をかけた
だからこれは友人に対して優しいからじゃなくて、わたしがわたしのやりたいようになるようににしただけ
そう考えたらわたしの行動って全部全部自分のためで利己的で、自分ののぞみを全く含まない純粋たる利他的な行動って一つもないのでは
わたしだけじゃない、人間が頭使って考えて意思を持って行動する以上、みんなそうなんでは
って話をランチ食べながらしたら(重すぎるぜ)『それはキリスト教でいう隣人愛なんじゃないの』と言われた。
曰く、己の隣人には絶対的条件愛を与えるべきという教えらしい。
クリスチャンはみな、この教えを守ろうという意思が(大なり小なり)胸中にあるのだろうおそらく。でも人間だから他人を愛せないときもある。どうにも愛せない他人もいる。
ここまで。我ながら続きが気になるが思い出せない。偽善という単語が脳裏に浮かんだが、今考えることはひと月前のわたしが考えたこととはちがうはず
思考は水溶性のイメージだから、書き記さないと溶け消え 消え 消えて しま う
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?