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何をもって「おわった」といえるのか 【水俣を訪れて】

2022年8月末。秋の兆しを感じる少し肌寒くなった東京から、まだ真夏日和がつづく熊本県水俣市を訪れた。

戦後の経済成長を牽引した企業チッソによる工場廃水の水銀が引き起こした文明の病「水俣病」。人々が豊かさを追い求めた裏側で生まれた犠牲と、現在まで残るその遺産をこの目で見て、少しでも学びを深めたかった。

水俣病について関心をもったきっかけは、大学院の授業で読んだ石牟礼道子さんによる『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)という文学作品。文学作品にはどうしても疎かった私は、この著作に衝撃を受けた。

もともと一介の主婦であり天草出身であった著書・石牟礼道子さんは、水俣病をきっかけに自らの故郷へ戻り、水俣病患者への聞き書きを開始。当時、高度経済成長の近代文明がもたらした「豊かさ」に酔いしれる人々に大きな衝撃を与えた作品となった。

水俣病という公害病を告発するだけではなく、近代文明の根底的な批判、それを支えてきた人々の罪への弾糾、極限状態に置かれても輝く魂と人間の尊厳を描き、写真は一枚も載っていないはずなのに、想像を絶する惨禍を自分が追体験し、言葉ひとつひとつに問いかけられているかのような感覚を覚える、そんな鎮魂の作品であった。

私は現在、大学院でアメリカの奴隷制について研究している。私が学んでいる奴隷制は、近代資本主義において力をもった者が利益を享受した一方で、それに翻弄された人々には様々な犠牲と苦痛が加えられ、何世紀にもわたる経済的な構造として続いていった歴史がある。

近代文明の「豊かさ」を追い求める裏側で起きた水俣病事件は、奴隷制と「構造的な共通性」をもっているのではないだろうかーー。『苦界浄土ーわが水俣病』は、私にそれを確かめさせるかのように、水俣の地へといざなった。

静かな波にゆったりとなびき、鏡のように水に照らされた火の光が映る不知火(しらぬい)海。

この海と対岸に広がる島々は、事件が起きる前からこの地に生きる人々に恵みを与え、多彩な漁師文化を発達させてきた。生きるために欠かせなかったこの豊かで美しい海が、人々の日常の営みと共同体を破壊するとなど、いったい誰が想像したであろうか。

工場廃水を排出し、水俣病の原点となった「百間排水口」。
 
そのすぐ側には、お地蔵様と碑石が安置され、誰かが数日前に供えたばかりの仏花があった。その前で手を合わせ、力強く咲く花々を見つめると「花を決して枯らせない」という強い意思とともに「水俣病を忘れない」という誰かの声が聞こえてくるような気がした。

2018年、水俣病犠牲者の慰霊式。原因企業チッソの後藤社長は「私としては患者の救済はおわっている」と発言した。1969年、かつて水俣病は「見舞金」という形で補償問題を処理され「おわった」とされたことがある。しかし、その後も9年間、水銀は排出されつづけ、さらなる被害の深刻化につながった。

この病は地域の分断を根深いものとさせ、人々に深い傷を刻ませた。そして、水俣病の公式確認から半世紀が経つ今日もなお、解決に向けた課題は残されたままだ。水俣病は決して「おわった」歴史上の出来事ではないはずだ。

いったい事件は、何をもってすれば「おわった」といえるのだろうか。この「おわった」という言葉は、何かを終着させたい一部の誰かにとって、都合の良いように使われてはいないだろうか。

それは、誰かの瘡蓋を無理やり剥がし、「傷は治された」ものだとし、もはやその傷跡さえ「ないもの」だとさせる行為のように思えてならない。

水俣最後の日。丘を少し登り、眼下に不知火海が広がる地に佇む「水俣病考証館」を訪れた。地域の中で孤立した患者と家族の拠り所を前進とした「水俣病センター相思社」が運営する民立民営の博物館だ。

ガイドのSさんは言っていた。「支援者や患者以外の人が水俣病について語ることができるようにならなければ、水俣病はおわらない。市民に深い傷が残されてしまったからこそ、自分は『伝えること』で、変わっていく空気感をつくる一助になりたい。」と。

私はSさんのように、人々の声を『伝えること』はできるのだろうか。

水俣を去る前、不知火海の前に建つ「水俣病慰霊の碑」で手を合わせた。

側に立ち並ぶ碑石の数々。その中のひとつに目を閉じ、苦痛の中に封ざれたような顔をした碑石を見つけた。大きく空いた口は、海に向かって何かを叫んでいるように見える。

水俣病について学びはじめたばかりの私には、この叫びの声が何か、その声に秘められた想いのすべてを汲み取ることはできなかった。

でも私は、この碑石の叫びの声がはっきりと聞こえるようになるまで、誰かの「おわった」という言葉にかき消される「おわっていない」という小さな声を拾い、耳を傾けていきたいと思った。

水俣病を「おわった」事件としない空気感をつくる一助になるため。

そして、いつかすべての人にとって本当に「おわった」といえるようになる日がくるまで。

「構造的な共通性」をもつ奴隷制を学ぶ私が水俣病といかに向き合うべきなのかを考え続けること、そして関心の火種を灯し続けることをこれからも止めないでいたいと思う。

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