教育について

近頃、思うことがあります。私はテレビをほとんど見ないので今の教育情勢がどうということに関して詳しい、あるいは正確に、把握しているとは言えない平凡な人間です。

子供はなぜ、どうして。の生き物で、かつ、そうあれるべきと思うのです。多くの大人がその疑問に対して「大人になればわかる」だとか「この公式を知りたいなら自分より勉強ができるようになってからだ」とさながら初めから好奇心に蓋をし、可能性を追い払っているのは「今だから」ではなく、ずっと以前から変わらない惜しく堕落的な行いかと募ります。

大人になっても答えられないこと、わからないこと、きっと子供が知るにはステップが早すぎる疑問であったりもするものです。

だけれども、そこに好奇心があれば、可能性があるということを私たち大人こそが覚えておくべきことと思うのです。将来の国家とまで言わずとも、その子供一人一人の将来の幸せのありかたでも構いません、大人の教育が人間構成に大きな影響を与えるかはわからないものですが、大きいのは確かです。環境や親、学校は選べません。自ずと学校を選んだようでそれは親や周囲の意思が強いの確かに見られる傾向です。私たちが教えをすることは当然、ノーリターンであるべきで、あるいはときに、善意でやれども悪人扱いされるかもしれない。だけどそれこそ、大人がすべき可能性の導だと考えます。

おもしろくないものをおもしろいように、一緒に考えてみよう。これがわかったとき、自分はワクワクが止まらなかったことを振り返ってみてもいい。それは我々大人が子という可能性にまた、学びを得ることでもあります。

私事ですが美術を人に教えることがありますが、人体の筋繊維の働きによって及ぶ効果を知っておくと、自分が筋肉トレーニングをするときや身体のメンテナンスに役に立つ時もありました。整体師の資格を得たいと思うようになっている。だがこれも元は美術から入ったものです。このようにどの切り口からなにに興味を持つかはわかりません。

どの教えがどう転ぶかはわからない。脳はなまけものだから、つい教えるのも面倒になるのだろうと思う、私たち大人はピークを過ぎれば老いて死に向かうだけだ。脳と体がどこまでリンクできるかわからなくなるものだ。なのだとしたら後ろを歩くものたちに「自分」を分けて行ったほうが幸せなのではないだろうか。私はそうあれればとおもう。自分を渡すことが、自分のためである。なにも子だけでない、ひとに親切であれる時あれば、おのずと幸福になれるものと私は若年ながら学びを少し得ました。

今この社会にも、夢すらみられない子供がたくさんいる。私はかつてとても貧乏で、心がすさんでいた。夢を見られない子供の一人だった。なにを綺麗事をいっても、お金は可能性である。また助けを出すもの、手を差し伸ばすものがいなければ弱きは生命は生きられません。

だからこそ今の若き可能性にもっと羽ばたいてほしい。そのために私になにができるか、ふいにおもう。自分のなすべきことを為せない人間がよその世話をしようなんておこがましいから。完璧にはなれないし、理想の自分にもなれないけれど、誰かの役に立ちたいと思う。私が老いるにつれて今より豊かになれば、若いものに教えさせてもらえる機外がほしい。と思う。

知識と経験は美しい。それを知ると毎日が少し彩る。

彩りを胸に大人になってほしいと思う。

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