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草を生やす人たち

言葉は、人間のうちにある心の生き写しだ。
勝手ながらわたしはそう思っている。

口から発する。書く。読む。奏でる。
わたしにとっては全てが大切な言葉。

合わない人

だからこそか。疑問も感じることは多い。
そもそも気にし過ぎな性格もいけないのは重々加味した上。

「うっ!この人とのコミュニケーションはきついな」そう感じる人がたまに現れる。
人間だからそんなの当たり前だ。

ちなみに先に謝る。申し訳ない。
完全なる、スーパー独断と偏見でものを言わせていただく。
正直なところ。「w」と文末につける人とは大抵親しい仲にはならないし、なれない。

ネットで使われるのはまだ分かるのだ。
でもそれは匿名世界の中であって。現実世界、ましてや名前も顔も知る関係で「〜〜ですw」って使い方がいまいち好意的に受け入れられない。
嘲笑されている感覚が残るのだ。
真偽は分からないけれど。

ただ自分の経験を総じて、このwをつける人たち(草を生やす人と呼ぶ)はなおざりな言葉遣いをする人たちが多い。

あたり触らずふんわり、ふわふわと。
「やば!」の多様な意味合いでその場を乗り切るような。
それは単にボキャブラリーが少ないとも考えられるし、それは人のことを言えたものじゃないのだけど。

とにかく…。いろいろ考えた結果“ことばの奥深さがない”というのがしっくりする表現だ。感情が見えないのである。


そういえば…。
これからも仲良くしたい昔の友人たちがいる。
けれど何度関わってもやっぱり心の通った体験ができず、一緒にいてなぜか楽しくない。むしろちょっと疲れる。
趣味も同じで学生時代の思い出も共有できるのに。のっぺらぼうみたいなおしゃべりをして、いつも仲間内で笑っている。

その子たちはゲラゲラといつも草を生やす。
本当に楽しそうなんだから良いじゃないかとも思うけれど。


草はなにも悪くない。生やす人も悪くない。
ただわたしには合わないのだ。

本曜日


毎週木曜日。これだけは見る!と決めて楽しみにしているYouTube動画がある。

#木曜日は本曜日

今日は松岡茉優ちゃん。
この企画についてはまた改めて思いの丈を存分に記したいと思いつつ、今日は無性に刺さる言葉があった。

益田ミリさんの漫画をみて「被害者になりがちな自分にストップをかけられる」と彼女は言う。

その言葉にハッとした。
そうだ。わたしがいつも正解なわけがない。

実は今日。心無いひと言にわたしはまた傷ついた。
草を生やす者の悪気のない言葉によって自分の存在を否定された気持ちになった。
そして、こちらがどんなに平等な目線で相手とコミュニケーションをとっていたとしても、シーソーのように相手は上下を計っていることもあるのだと思い知らされた。


でも誰かに傷つけられるばかりじゃなくて、自分が誰かを傷つけてしまうこともあるのだ。

自分にばかり焦点を合わせてしまっていた今週。
垢すりされたかのようにボロボロと皮が剥けた気がする。サッパリだ。



仲良くしたかったけどサヨウナラ。
心通わせたかったけどこの距離でいよう。
真心がいつも伝わるとは限らない。
わたしの言葉を受け取る相手の自由な思想を奪ってはいけないのだから。

心からそう思えた。


同じようにわたしの感じることも、誰にも侵されない自由を持つ。自分が感じたまま。信じたままに、表現することだって悪くないはずだ。


そんなふうに今日のモヤモヤもを、自分を肯定するきっかけに変えてみる。
一周回って“合わない人もいていいのだ”と確かめただけではあるが、心底納得した気づきというものは、自らを励ますことがある。

草を生やす者のおかげで、改めて「そう人もいるか」と多様性を認められる懐を広げられたのかもしれない。自分の普通を緩和できたのかもしれない。

それならむしろありがたい出来事だった。
そう転換するとこまで突き詰めた自分よ、偉いぞ。とも思える。
必要なときに必要な言葉に巡り会える奇跡に感謝だ。

そう思ったら今日もよい日だった。
やなことはあったけど、良い日だった。

今夜も寒い。寒いからお風呂や布団の暖かさに幸せを感じる。
そっと隙間にリラックスの時間も取り入れて。のんびり過ごそう。

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