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21.転生人が語る歴史の真実

歴史の記録には、事実とは異なる記載が沢山あります。勝者の弁とか、支配者の都合の良いように書かれているものです。その時点では、有効な説明であっても、情勢が変われば相応しくない話しと言うのもあります。

伊達政宗は豊臣秀吉の小田原攻撃のときに、後に会津若松城と呼ばれることになる、黒川城におりました。秀吉の命令により、小田原攻撃への参戦を促されておりました。しかし、小田原の北条氏とは同盟関係を結んでいたため、参戦には躊躇していました。

そこで片倉小十郎が、時勢を考えて参戦することを政宗に進言したのです。一度は出陣したのですが、途中で引き返してきました。遅参したことで秀吉に首をはねられる危険を感じたからです。もし、自分が死ぬような事があれば、黒川城に残された弟の小次郎も殺されてしまい、伊達家が滅亡する危険を感じたので、理由を付けて小次郎を殺したことにしました。

その作り話が歴史の記録となって残されてしまったのです。なぜそれが作り話だと断言できるのかといいますと、私が片倉宮司と現在の小次郎君の墓参りをしたとき、墓には誰も入っていなかったからです。そして後に、東京のあきる野市にあるお寺に小次郎君が僧侶としていたという記録を見つけたのです。

政宗公は霊体となって、片倉宮司のもとに降りられて、自分が弟を殺したことになっている歴史に苦しんでいると、何度も伝えてきていると言っていました。

政宗公が自分の思いと異なる歴史の記録は、キリシタンの殺害に関してです。徳川幕府のキリシタン取り締まりが強化されてくると、仙台の城下にかくまっていたキリシタンの者達を隠さなければならなくなりました。

政宗公はキリシタンを容認していたのです。現在も多くの史料が残されています。五郎八姫様を江戸から仙台へと移したのも、弾圧が強化されてきたからでした。

しかし、政宗公の温い取り締まりは段々と通用しなくなりました。そのために、外国人宣教師をお城の入り口にある大橋の下に、かごに入れた宣教師を川の中に沈めて殺害しました。この記録から、政宗公はキリシタンを嫌い迫害したと歴史に残されたのです。

事実は、多くのキリシタンを隠す為の行為だったのです。その供養を頼まれた転生した人が、政宗公がそう告げられたと言っています。今でも心を痛めていることだそうです。

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