11.霊の自由度
ここでは400年前に活躍した戦国武将の転生の話しをしていますが、霊界からこの世に生まれると、物理的制約を受けて不自由な人生を送らねばならないのですが、この世への誕生ではなく霊界からこの世にアプローチするということは自由にできるものだと思っていました。でも、10回でお話ししたように、伊達政宗公が前世の鬼小十郎の片倉宮司さんと話しをするためには、片倉宮司さんとは見ず知らずの方のところに降りられて連れてこられないとお話しができませんでした。
でも私の場合は、直接声だけは聞くことができました。私のところにはダイレクトに降りることができるのでしょう。しかし、私の意思では呼ぶことも会話をすることもできません。名古屋の女性を介さないと話しは聞けないのです。それも一方的な話しだけです。
ある時、片倉宮司さんが東京に行くことになりました。私と会話している最中に政宗公が傍にいる感覚がして、片倉宮司さんにその事を伝えました。その時にはまだ片倉宮司さんは政宗公と直接会話をすることはできませんでした。私は声が聞こえると言うより、思いが湧き上がってくるという感じなのですが、その時政宗公が片倉宮司さんに「お伴する」と言った気がしたので、そのように伝えると、「俺がお伴するならわかるけど」という返事でした。
東京へ行って帰ってくると、「判ったよ。政宗公が行きたかった所」それは芝の増上寺傍の東照宮でした。そこは日光東照宮から徳川家康公の分霊を祀っているところなのですが、そこに三代将軍の家光公手植えの銀杏の木がありました。生前の政宗公は家光公に「仙台の爺」と親しまれておりました。きっとそこには、家光公が降りられるところなのでしょう。そこで政宗公が家光公とお会いしたのだと思います。
この事から、霊は自由に移動できないということがわかりました。3次元のこの世では、誰かにくっついて行くしか移動でき無いのでしょう。憑依現象も、どこかに行きたい霊がくっついてくるのだと思いました。