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人の営みについて(美術手帖を聴いて)

 noteで #聴くマガジン なるSpotifyのポッドキャストを発見し,ちょうどアートに興味があったところなので「instocial by 美術手帖」の#1「アートと街づくり(前編)」(12月15日)を聴いてみました.

 MCはウェブ版「美術手帖」編集長の橋爪勇介さんと,東京・銀座のアートギャラリー「THE CLUB」マネージングディレクターの山下有佳子さん.ゲストは三菱地所の有光頼幸さんでした.先日evalaさんのサウンドインスタレーション《Grass Calls》を体験しにGINZA SIX屋上にお邪魔したのですが,山下有佳子さんの手掛けている「THE CLUB」が同じGINZA SIXの6階にあったということで,次回銀座を訪れたときには是非観に行きたいと思います.

 正直に言えば,アートという言葉の響きは芸術よりと比して高尚さに欠ける印象を持っています.というのも,Creative Codingを漁った際に「アート」という語が自分を含めた一般人から近い距離感で頻繁に登場し,そしてまさに今のように,企業が「アート」を大事にして建築物や街の景観に取り入れていることで,ありふれた流行り物でわざわざ口にするのは格好悪いと感じたのだと思います.
 僕は俗人にまだ見えていないものを創り出して叩きつけ,人々の価値観を変革することが芸術だと思っています.すると一般人が「なんか良い感じ」に気持ち良く生活するのを助けているアートというものは芸術の英訳ではなく,俗物化した別の概念に思えました.話は変わりますがクリエイターという職業も芸術家が社会の下について俗物化したような気分で見えています.言い訳をしますが,クリエイターが低俗な職業と言っているのではなくて,高尚ではないように見えているのです.つまり他の職業,例えば営業職や会社員と変わらない立ち位置だという風に見えています.
 但書として,具体的にフォーカスしたアート,例えば「現代アート」は便器にサインして作品にしてみたり,全裸で輸血用チューブに絡まれてみたりと,「なんか良い感じ」とは言えないものも包摂した印象を持っています.
 とにかく,僕にとって「アート」という語彙の中心的印象は建築物でよく見るなんか良い感じのアート作品にあり,それはつまり社会の偉い人の思惑で配置されたものなのであんまり良いと思いたくないなぁという気持ちでした.社会に隷属したくない若者の典型だなぁと思うと,うわっ結局僕も人間のステレオタイプに収まってしまったじゃないかと,今書いていて少々がっくりしました.

 KCS音楽班で音楽制作してみたり,KMMで他の人の音楽作品を見てみたり,Music Planzで他の人の人生を知ったり,あとは卑近すぎて書きたくありませんが一人暮らしのままならなさとか,普通の生活って思ったよりあっさり崩壊するなとか,健康って儚いし命も思ったより急に途絶えるなとか,僕って周りの人ほどまともに生きられていないなとか思ってみると,この,一般人がさらっと見聞きして気持ち良く生活できる「なんか良い感じ」というのが実は結構レアなのだなと感じました.というか東京って地方との景観との差異が凄い.いつの間にか慣れたのか延々と部屋に閉じこもって勉強するうちに忘れてしまったのか,人の営みの新鮮さが凄いですよね.どんどん新しいことが人の手によって更新されている.今までどうでもいいと思っていましたがこれって実は尊いのでは?

 春に都市工学を学んで,どうやら都市/街というのも数学や物理みたいな考え方で作るみたいだぞということを知りました.そして数学や物理みたいなことを考えて街を設計した人が街ごとにいる.それでいて建築物一つごとにまた数学や物理みたいなことを考えて設計した人がいて,いや僕は圧倒されるほど人の営みの中で生きてるじゃないかと.ポッドキャストの中で街の余白という言葉が出てきた気がしますが,都市だとか家だとかはいわば僕の人生の余白というわけです.今僕にとって大事なのは大学の課題を期限内に提出することで,その他諸々の生活に必要な営み…と,あとは中々やめられないTwitterなどのSNS…以外には意識が向くことはない.しかし僕の営みは社会の上,家の中で展開しているんですね.それはOS上でアプリが動くのにも似ていて,僕としてはプログラミング言語Processingで作ったアプリが動いたときには自分の力で成し遂げた気分ではしゃいだものですが,それもWindowsの上,マウスコンピューター作のPC上の出来事でしたし,Processingを作った人,Processingのライブラリ(minimとか)を作った人は別にいる.いわゆるプラットフォームの上にプラットフォームが,その上にプラットフォームが…という上で僕が何かしてはしゃいでいる.正直似たような文章は小学校の道徳の教科書で読みましたが,今になってそれが自分ごととしてわかってきたというところです.

 余白に何があるかというのは実は重要だと思います.次の行動が余白から決まることは往々にしてあります.この文章は完全に気の向くまま書いた随想という感じですが,気の向くままなので最近見た言葉が良く考えた言葉よりも先に出てきます.Twitterで見た「資本主義の犬」とか.でもこの言葉を使ったらこの文章の雰囲気は崩れますよね.Twitterというのは人生の,どちらかと言えば汚い余白です.人間一人一人が少ない精神疲労で気持ちの良い行動をするには,余白に気持ちの良いことが描かれているのが良い.そう言う意味では,社会を担う会社員の人たちが,いわゆるアートに触れて,人のためになる言動のモチベーションにしているのだとしたら全然馬鹿にできませんよね.

(意味がない,意味がない,意味がないと,無駄を省いていると,生きている意味がないことに気づいて無気力になってしまう)

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