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AかBか…?

今日、胡桃堂の朝モヤに参加した。その中で、「多様性を認識できる方が偉い風潮がある」という言葉がとても印象に残ってしばらくモヤモヤしていた。「無知なことが悪い」「多様性の時代から遅れてるのが悪い」と知らない人を責める二項対立的な風潮の強い社会…。「AかBか。」

そうではなく、「AかBかじゃなくてC」「AかBかじゃなくてどっちも」ってこともあっていいのに、なぜか意見の違う者同士はいがみ合って対立してしまう。以前まではわたしもAかBかと聞かれたらどちらかしかないと思っていた。「AかBかじゃなくてC」と教えてくださったのはとてもお世話になったゼミの教授であり、「AかBかじゃなくてどっちも」と教えてくださったのはとてもお世話になったこのカフェの店主だ。


今日の朝モヤの中で具体的に話題に上がっていて、私が印象に残ったのは「お母さん食堂」というネーミングのお話だった。このネーミングは性的役割分担の固定化につながる差別用語だと変更を求める署名が集まったそうだ。確かに家庭の形はいろんな形があり、共働きが主流な時代へ変化してきた現在、料理はお母さんがしなきゃいけないものではない。「お母さん=料理」という無意識の偏見を植えつけてしまう恐れのあるネーミングであるという意見にはとても共感するし、そういった固定観念はなくしていきたい。料理をするのはお父さんだっていいし、ある程度大きくなったら子どもがお手伝いしたっていいし、たまには料理をせず買ったっていい。しかし、もしかしたらネーミングした側は、孤食が進む時代に誰かのつくったものを一緒に食べるといった少しでもほっこりとした温かな気持ちを届けたいという善意があったかもしれない。そこに攻撃のみをしていくのは、言葉の背景が全く汲み取られていないように感じてしまった。「お母さん食堂」この"言葉"をただ攻撃するだけの炎上にはなにかの違和感を同時に感じた。

もちろん多様性を理解しようとしないことは問題だと思うけど、ある分野では、「知らなかったこと」が誰しもあるのではないかと思う。知らなかったがゆえに想定外のことが起こってしまうことだって誰にでもあり得ることだろう。そのことを「なんでそんなことも知らないの?時代遅れだよ?」ってただ責めるのはなんだか違う気がしている。わかり合いたい気持ちが感じられない。

無知によって軽率な発言で誰かを傷つけてしまうことは恐ろしいと思うし、そうならないように出来るだけ多くのことを知りたい気持ちはあるし、時代から遅れないようについていきたい。けれど知ることだけが大切なのではなく、大切なのは「分かろうとすること」や、「知ることを諦めない姿勢を持ち続けること」なのではないか。そこのプロセスにもっとフォーカスできないのだろうか。知ってるか知らないかの結果だけではなくて。そして知ってる人は知らない人を責めるのではなく、伝えていけるといいんだろうと思う。そうして少しずつ分かり合えていければいいのではないかと思う。

「言葉だけではなく、言葉の奥にある真意を汲み取ること」「いろんな人の背景に想いをはせること」「違いを楽しむこと」言葉だけ聞くとできそうで実際にはとても難しいことだと思う。しかしそういったことを心がけるだけで二項対立的な風潮は少しずつ変わってゆくのではないかと思う。


知ってるか知らないかのAかBかではなく、
「知っている人は伝えていく」
「わからない人は素直にわからないって言える安心感がある」
「知らない人はわかろうとする気持ちを持つ」
を大切にできないだろうか。

知ってるか知らないかの結果だけではなく、
「知ろうとする姿勢」「葛藤する気持ち」「モヤモヤ悩む時間」「意見の違う者同士がじっくり話し合う時間」そういった途中にあるプロセスにも目を向けていけたらいいのではないかと思う。

二項対立すぎない、結果主義すぎない社会。

発言に怯えて萎縮しすぎる人が増えていくのではなく、わかり合おうと歩み寄る心を持った人が増えていくといいなと思う。

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