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自分のこと②
わたしという人間は、どんな人なのか。
どんな育ちかたをして、どんな経緯をへて、今に至るのか。
43歳の現在まで書いていった結果、何回編になるのか未定ですが、これからしばらくの間、つれづれなるままに書いていってみたいと思います。
1.自分のこと①のまとめ
●自然豊かで、バスもろくに通らないような、住人みなが知り合いの小さな集落。どこにいても、何をしていても、誰かしらに見られている、逃げも隠れもできないプライベート筒抜けの環境で、窮屈さを感じながら育つ。
●父は虎のような眼光を放つ、血の気の多い人。事あるごとに震え上がるほどの怒鳴り声を発していたため、その恐怖体験から、全てにおいて叱られることを極端に恐れるようになる。また、父親へ甘えるという経験の欠落から、ファザコン傾向が形成される。
●母は少女っぽさが残る姫のようで、ときにカラス相手に真剣に説教するような天然キャラ。加えて、心配性で、極端な悲観主義。こちらが守ってあげたくなるような存在であったため、心配をかけぬようにと、母の心理面への影響を優先して、物事を選択するようになる。
2.自分のこと② : 次女かつ真ん中っ子という立場が与えた影響
※ここでは、あくまで、「当時のわたしには、どう見え、どう感じていたか」という視点から書いていきます。
わたしには姉と弟がいます。
実家は田舎の本家、しかも兼業農家でしたから、当時の風潮では、『一人目は女の子だったから、次こそは男の子を…!』と望まれるのは、当然のことでした。
でも、結果は女の子だった。
すなわち、わたしは、「二人目の女の子=望まなかった子」という立ち位置で、この世でのスタートを切ることになったのです。
(がーーーん!!)
しかも、そのことを、8歳という小さな頃に、直接父親の口から聞かされたのですから、その時に感じた悲しみや絶望感というのは、ものすごいものがありました。
母親からは、すこし後に二人になったときに、ゆえに母も出産を祝福してもらえず辛かったのだと聞かされました。
ですが、これとて、母を哀れに思う気持ちは抱きつつ、わたし自身はさらなる傷を負うことになりました。
(このことについては、↓の記事でも触れていますので、ご興味ありましたらお読みくださいませ♡)
せめて、その悲しみや絶望感を、感じたその瞬間に、感じたその場で、泣いたり怒ったりして素直に表現できたらよかったのかもしれません。
ですが、8歳のわたしは、父に対しても、母に対しても、
『ここで感情を出したら、困らせてしまうに違いない』
と一瞬のうちに考え、必死に平静を装い、なにも感じなかったかのように振る舞いました。
真ん中っ子で、家族関係がよく見える立ち位置にいたため、その頃までにはすでに、家庭内で自分が置かれている状況を見極め、言動を選ぶ傾向があったからです。
当時のわたしから見て、姉は自由奔放、弟は甘えんぼうで泣き虫。
幼き日の姉のわがままに振り回された思い出を、事あるごとに幸せそうに話す両親。弟にはとびきり甘い両親。
わたしもお父さんとお母さんのいちばんになってみたいけど、到底なれそうにはない。
わがままを言って両親を困らせたくはないから、何も言わずに一人の世界にこもります。
すると、両親は、学校の先生、近所の人、関わる人だれに対しても、
『この子はお利口で、本当に手がかからないんですよ。』
と誇らしげに話す。
『そうじゃなくて、演じてるんだよ〜!なんで気づかないかな!』
と心の中では叫ぶけど、そう言われてしまうと、周りにはますます、本当の自分なんて出せなくなってしまう。
真綿で絞められるような感覚を伴いながらも、「手のかからないいい子」を演じ続けるしかなくなったのです。
だいぶ独りよがりだったかもしれないし、実生活ではしっかり親姉弟に世話になって、たくさん迷惑もかけてきたんですけどね…。
当時の自分はそんなふうに感じていたわけです。
そんな状態で、「本当は男の子がよかった」なんて告げられたもんだから、そりゃあ、存在まるごと全否定された気持ちにもなるんです!
(ちょっと洋さんっぽく。ラストマン、よかったですねぇ!涙)
ちょうどその頃、追い討ちをかけるように、親戚や近所の人から、
『あんたの顔はお父さんにもお母さんにも似とらんねー!お姉ちゃんはお父さんに、弟はお母さんにそっくりけど!』
などと言われるようにもなりました。
それで、その頃は、かなり真剣に、実は自分だけは養子なんじゃないか、だから愛されないんじゃないか…と疑ってもいたものです。
…で、どうなったかというと、
「望まれなかった次女+空気読むのが得意な真ん中っ子」というのが組み合わさって、
ただでさえ望まれてなどいなかった存在なのだし、それに血も繋がってないのかもしれないし、ここに居ることを許されるためには、せめて親を困らせないようにしなければという気持ち、
つまりは、
他人を軸として言動を選ぶことが常になっていったのです。
癖や習慣というのは怖いものです。
他人に喜ばれる、他人に認められる言動を取ることばかりを続けていたわたしは、たとえば始めは、
『わたしが望むことではないけれど、母が喜ぶだろうからこうしよう』
と認識していたのが、
いつのまにか、
『母の喜びがわたしの喜び。わたしは母を喜ばせたいと思っているからこそ、こちらを選ぶ。』
というように、思考回路がすり替わっていった。
軸が他人にずれてしまっていることを忘れていったのです。
その後、思春期に入り、ますます親とわかり合うことは難しくなり、ちゃんといじめの標的も順番が回ってきて、誰も、何もかも信じられなくなったことも、影響してきます。
目の前の現実を生き抜くことだけで精一杯だったその頃、自分の本心を認識してしまったら、もはや現実には適応できなくなるだろうと、どこかで気づいていた。
だから、自分自身(本心とか魂とかインナーセルフとかいう言葉で表現されるもの)とのコンタクトを断ち、自分の本心を知り、認めることすらも、すっかりやめてしまったのです…。
その後、この暗闇のような時代は、大学進学を機に実家を離れるまで続くのであります。
今回はここまで。
こんな重ーい話を、長々とお読みくださり、ありがとうございました^^
お話は第3回へと続きまーす。