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自分のこと①

わたしという人間は、どんな人なのか。
どんな育ちかたをして、どんな経緯をへて、今に至るのか。

43歳の現在まで書いていった結果、何回編になるのか未定ですが、これからしばらくの間、つれづれなるままに書いていってみたいと思います。


第1回は、まず、育った環境からですね。

生まれは長崎の片田舎です。
大村湾沿いの、海に、山に、田んぼに、みかん畑に囲まれた、そして、交番も飲食店も図書館もなく、身を寄せる場所といったら『自分の親の家』しかないような、小さな集落でした。

小学校は当時、全校生徒で80人ちょっと。
なので、当然、ひと学年1クラス。
児童全員の親も、兄弟姉妹も、家の場所も知っているし、運動会の競技に『全校リレー』なるものがあるような小規模感でした。

そんな、狭くて、人口も少なくて、近隣との付き合いが密な土地柄でしたから、同級生の家にいようが、山に登っていようが、川で遊んでいようが、「きょうこちゃん?あぁ、○○に△△ちゃんと一緒におって□□しよったばーい!」と、すぐに親に伝わってしまう。

よく言えば、いつも大人に見守られている、悪く言えば、常に誰かしらの目があって逃げ場や隠れる場所がないところ。

集落の両端には山がそびえていて、バスも朝夕1便ずつみたいな環境だったから、親が車を出してくれない限り、どこへも行きようがない。

『自分を素直に出す』ことができなかった当時のわたしは、思春期をむかえた頃から、その環境を、とてもとても窮屈に感じたものです。

ただ、JR長崎線は通っていて、本数こそ少なかったものの、これは、「線路はつながっているのだから、いざとなったら、あれに乗りさえすれば、どこへでも行かれる」という、希望の光みたいな存在でした。

家族は父、母、姉、わたし、弟の5人。
父は本家の跡取り長男でしたので、物心ついた頃には、同じ集落内に住んでいた父方の曽祖父、曽祖母、祖父、祖母と同居することになり、9人家族となります。本家だったので、やたらと来客が多い環境でもありました。

大家族だったころの暮らしの記憶は、断片的にしか残っていません。これには、わたしが小学3年生になるまでに、曽祖母、曽祖父、祖父が相次いで亡くなったことと、わたしが『次女』という立場だったことから、目立って愛された孫、ひ孫ではなかったであろうことが関係しているのだと思います。

『次女』という立ち位置のことは、自分史を語るうえでブログ1本書けるほど長くなりそうなので、次回以降に譲ることとして…。

父は、虎のような鋭い目力を持ち、わたしが幼かったころは、何かあればすぐに怒鳴り散らすような、めちゃくちゃ血の気が多い人でした。

公務員でありながら、武道の師範でもあり、堅気の人でありながら、そっち系の人の空気感を放つ。いったん怒らせてしまったら手がつけられなくなる、道理から外れたことをしたら男女関係なく確実に勘当されそうな、わたしにとってはこの世でいちばん恐ろしい存在。

自宅の全身鏡には、人の顔面を模したテープが貼ってあって、それを的に、毎晩修行レベルで蹴りの練習をしていたり(そのテープの顔は妙に存在感があって、とりわけ夜は、視界にはいるだけで震えあがるほど怖かった…。)、

子どもの誰かがちょっと悪さをしようものなら、すぐに怒鳴り声で名前を叫び(でも、ビクーーーッ!!!とするほど大きな声なのと、語頭がいまいち発音不明瞭なので、誰が怒られたのかすぐには分からない…笑)、

運転中に気に食わない運転をするドライバーがいれば、手動の窓を猛スピードで開けては怒鳴りつけ、ときには相手を車から引きずり下ろし、長々と説教し…(子どもながらに相手の方が心配になるほどに…)。

幼き日のわたしにとって、父とはそんな存在でしたので、世の中でよく見かけるような、女の子が「パパァ〜♡」って駆け寄って抱っこされにいくようなシーンは、まず起こりえませんでしたし、常に、『父の地雷』を踏むことのなきように、どこか気を張って接していたように思います。

この育ちは、後々、『ファザコン傾向』や、『叱られることを極端に恐れる』という形で、わたしの恋愛面や仕事面に影響していくことになります。

また、わたしは、初対面の方からは、育ちのよいお嬢さんと思われがちで、「話し方がきれいですね」と言っていただくことも多いのですが、父の荒っぽい言葉を日々聞き続けて育ったため、心の声は、実はヤンキー口調だったりします。

他方、母は兄姉の末っ子で、頭皮から指先に至るまですき透るほど色白の、お姫さまのように可愛らしい人でした。(ゆえに、のちに姉と、「これぞ美女と野獣だよね!」とよく話したものです。)

ちょっと(いや、だいぶか!?)天然がはいっているところも、また可愛い。

「素麺ば湯がいたはずとけど、どこにいったかわからんくなったとさ〜」(のちに、台所棚の中で見つかる…)とか、「この前わたしの新品の手袋ばくわえて持っていったカラスがまた来たけん、説教してやったとさ!」(どうやって同じカラスってわかった!?)とか、笑い転げて腹がよじれるようなネタに事欠かない人。

ただ、看護師という職業が影響していたのか、わたしからすると、極端な心配性で、潔癖で、悲観主義でもありました。

たとえば、子どもがちょっと怪我でもしようものなら、傷口が発端となって仮に感染症になったらこうなってしまう、果てにはこういう障害につながる可能性もある…と、どこまでも最悪パターンの悲劇の妄想が続く…。

ですので、産みの親ゆえにそばにいるだけで特別な安心感はありましたけれど、どこかちょっと心配になってしまう。

母の心配の種を増やさないように、「心配をかける行動は見せないようにしなくちゃ」、「安心させといてあげなくちゃ」という心理になってしまう。

この関係性は、のちのち、わたしが進路を選んでいく際に、大きく影響していくことになります。

とまぁ、井の中の蛙という環境で、なかなかにユニークな親のもとで、高校時代までを過ごしたのでありました。

けっこうな字数になりましたので、今回はここまで。

次回は、育った環境編、第2弾。
『次女』という立ち位置が与えた影響について、書いていきたいと思います!