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自分のこと④

わたしという人間は、どんな人なのか。

どんな育ちかたをして、どんな経緯をへて、今に至るのか。

43歳の現在まで書いていった結果、何回編になるのか未定ですが、これからしばらくの間、つれづれなるままに書いていってみたいと思います。



1.自分のこと①〜③のまとめ

●自然豊かで、バスもろくに通らないような、住人みなが知り合いの小さな集落。どこにいても、何をしていても、誰かしらに見られている、逃げも隠れもできないプライベート筒抜けの環境で、窮屈さを感じながら育つ。

●父は虎のような眼光を放つ、血の気の多い人。事あるごとに震え上がるほどの怒鳴り声を発していたため、その恐怖体験から、全てにおいて叱られることを極端に恐れるようになる。また、父親へ甘えるという経験の欠落から、ファザコン傾向が形成される。

●母は少女っぽさが残る姫のようで、ときにカラス相手に真剣に説教するような天然キャラ。加えて、心配性で、極端な悲観主義。こちらが守ってあげたくなるような存在であったため、心配をかけぬようにと、母の心理面への影響を優先して、物事を選択するようになる。

●田舎の本家で後継ぎ男子が望まれるなか、望外の次女として誕生したため、父や祖父母ががっかりしていたと8歳にして聞かされ、「わたしは要らなかった子なのだ」と認識。深い悲しみと絶望感を抱えながら生きることとなる。

●真ん中っ子で、家族関係がよく見える立ち位置にあったため、意識せずとも自然と、自分が置かれている状況や、その状況で最適と思われる言動を察知する能力が磨かれる。

●この、望外の次女+真ん中っ子という組み合わせから、「望まれない存在の自分が存在することを許されるためには、せめて親を困らせないようにしなければ」という気持ちを起点に、つまり、他人を軸とした言動を選択するようになる。

●次第に、他人軸の選択がデフォルト化し、そもそも軸が他人にずれている自覚すらなくなっていく。

●思春期の人間関係の困難さも加わり、目の前の現実をとりあえず生き抜くための生存戦略として、本来のピュアな自分へと繋がる扉を完全に閉ざしてしまい、自分の本心を知ろうとすることすらもやめてしまう。

●自分の本心を認めようとせず、見ようともせず、自分を置き去りにした選択を重ねたことで、次第に、本心に蓋をした選択をしている自覚も失っていき、怖れからの選択を本心からの選択と誤解したまま、その後の20代、30代を歩んでいくことになる。


2.自分のこと④ :  解放と傷の顕在化 - 怖れからの選択を重ねた時期

大学進学と同時に実家を離れ、日常生活における雑音、

〜 つけっ放しのテレビの音や、「早くしなさい」とか「あんたはマイペースすぎ」といった家族からの言葉 〜

にさらされることがなくなったことは、肩にのしかかっていた、なにか太い枠がぽーんと外れたような、解放感がありました。

空想にひたっている最中に
声を掛けられて中断されることがない。

どんな自分でいようが
非難されたり否定されることがない。

自分の大切なものを
隠して守らなくても大丈夫。

家の中で、だれに気をつかうでもなく、常にありのままの自分で居られるようになったことで、重りが取れたように、楽にもなりました。

加えて、幸運なことに、大学では、それまでの人生で初めて、自分が考えたり感じたりしてきたことを共感し合える仲間と出会うことができ、

「なんだ、わたしがおかしかったわけじゃないんだ!」

「今まで共感できる人が周りにいなかっただけなんだ!」

そう思えて、びっくりして、感動して、うれしかったことを、今でも鮮明に覚えています。

初めて、魂レベルのバイブレーションで喜びを感じた瞬間だったのだろうと思います。

自分よりもずっと深い洞察力を持つ同級生の思想に触れて、「わたしがいつも悶々と考えていたのは何もおかしいことじゃなかったんだ」と思えたり、

英語を本格的に学んだことで思考回路が増えたり(それで、英語モードに切り替わると、軽やかで、たくましい自分になる)、

『地球の歩き方』を片手に海外ひとり旅を重ねたり、しばし海外で過ごしたりしたことで、バイアスが次から次へと取れていったり、

こうしたことも、押し込めていた自分を解放することにつながっていきました。

それで、当時は、すっかり解放されて、それまでに負った傷も癒し終えて、全てを
ありのままの自分で選択する人生を、送り始めたつもりでいました。

つい最近まで、そう思っていました。

ですが、内観を徹底的に行い始めてから、あらためて当時の自分を見つめてみると、そうではなかったこともあったのです。

まずは恋愛面です。

何もかも筒抜けの環境で育ったことから、がっぽりと不足していた、静かに自分と向き合う時間を補うために、ひとり時間を楽しんでいたことは確かです。

でも一方で、自分のなかの深い深い奥底には、この世に誕生したときに祝福されず、絶望と孤独感を抱えたままの、幼き日の自分がいた。

その後、他人に認められることで存在価値を見出そうとした、子どもの頃の自分がいた。

だから、孤独感や承認欲求を満たすために、自分を必要とし、受け止めてくれる相手を求めて、交際相手がいなかった時期がないほどに、恋愛を重ね、繰り返していたんです。

恋愛に依存していた、と表現してもよいくらいだったと思います。

また、父親に甘えるという経験を欠いたまま育ったわたしには、その穴埋めをするかのように、極端に年上の相手を求める傾向もありました。

そのころの自分は、悲劇のヒロイン役にどっぷり浸り、自分は切ない恋愛が好きなのだとか、年上に好かれやすい傾向があるのだとか、恋愛体質なのだとか、なんとも傲慢な考えでいました。

でも、本当のところは、純粋に恋愛を楽しんでいたのではなく、自分の孤独感や承認欲求、ファザーコンプレックスを癒すために、なんとも自分勝手な都合で相手を求め続けていたのです。

ちなみに、そんな不純な動機で、自分の傷を癒したいがための恋愛ばかりだったので、必然的に、寄せつける人も、選ぶ相手も、傷を負い、深〜い闇を抱えた人ばかりでした。

なので、どの恋愛もドロドロで、ときにはホテルに軟禁されかけたり、ストーカーすれすれの行為に遭ったり…。そんなふうな、よく生き延びることができたなって思いをしたことも何回もありました。(深く反省…。)

癒えていない傷の影響は、仕事面にも表れていました。

自分のことを本当には信じきれないままだったから、親の期待に応えることが基準のままだったから、不安感と他人軸を基点にして、仕事選びをしてしまっていたのです。

大学でゆっくりと考える時間をもらったにも関わらず、結局自分が何をしたいのかは分からないままだったけれど、それを横においても、純粋にわき出てくる興味や関心から仕事を選ぶことはできなかった。

仕事を選ぶときに基準にしていたのは、

・収入
(経済面への不安感から)

・休日数
(仕事はガマン、遊びは休暇でという思い込みから)

・英語を使う仕事であること
(大学で学ばせてもらったことは無駄にしてないですよという、親に対する罪滅ぼし的なものから)

こんなところでした。

例えば、わたしは子どものころから植物が好きだったものですから、お花屋さんを開くのも素敵だなぁって思ったことがあるんですけど、「大学まで出してもらって、大卒って学歴が必ずしも必要でないお花屋さんになりたいなんて、とてもじゃないけど親に言えない…。」という考えに行き着いてしまって。

こういう思考回路から抜け出せずにいたから、「わたしはわたし!」と腹を据えて、心が動く方向へはじめの一歩を踏み出してみるって選択ができなかったんです。

それでも、幸か不幸か、器用で、なんでもある程度そつなくこなすことができたことと、持ち前の根性もあったことで、自分に妥協して選んだ道でも、それなりに道を切り開いていくことはできました。

5年かけて何とか大学を卒業したものの、集団行動に抵抗感がありすぎて、いわゆる就職活動というものができなかった私。当時、派遣社員という働き方が拡大傾向にあったので、「就職しなくても、仕事なんて派遣でいくらでもあるでしょ」と、思ってもいたのです。

しかし、私の目論見は甘すぎて、派遣会社の担当者からは、「大学出て、一度も就職したことないなんて人を採用してくれる会社なんてないですよ…。」と、苦笑いとともに一蹴される始末。

それでも、しつこく派遣会社へ通い、PCスキルを身につけて、なんとか派遣の仕事にありつくことができました。生計を立てるために大学時代から続けていた夜のお勤めにも、ちゃんと別れを告げることができました。

その数年後には、3箇所目の派遣先となる由緒ある大企業とご縁がつながり、3年間コツコツと働いたのち、そのまま中途採用いただくことができました。

派遣先でも、就職先でも、ほんとうに楽しくて心底笑い転げたことも、マニアックな分野の仕事に面白さを感じたことも、世界中の人のいろんな面を見て学ばせてもらったことも、今に至るに必要だった出会いもたくさんありました。

でもね、恋愛にしても、仕事にしても、当時の自分は気づけていなかったけれど、よーく見ていくと、今回書いてきたように、孤独感や、承認欲求や、不安感といった、いわば怖れの気持ちというものを起点としていたから、あるところまで行ったときに、「あれ?なんかおかしいぞ?」、「このままっていうのはなんか違うんじゃないか?」と感じ始めたのです。

この違和感を感じ始めた頃からのことは、次回に書いていきたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました♡