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自分のこと③

わたしという人間は、どんな人なのか。
どんな育ちかたをして、どんな経緯をへて、今に至るのか。

43歳の現在まで書いていった結果、何回編になるのか未定ですが、これからしばらくの間、つれづれなるままに書いていってみたいと思います。



1.自分のこと①&②のまとめ

●自然豊かで、バスもろくに通らないような、住人みなが知り合いの小さな集落。どこにいても、何をしていても、誰かしらに見られている、逃げも隠れもできないプライベート筒抜けの環境で、窮屈さを感じながら育つ。

●父は虎のような眼光を放つ、血の気の多い人。事あるごとに震え上がるほどの怒鳴り声を発していたため、その恐怖体験から、全てにおいて叱られることを極端に恐れるようになる。また、父親へ甘えるという経験の欠落から、ファザコン傾向が形成される。

●母は少女っぽさが残る姫のようで、ときにカラス相手に真剣に説教するような天然キャラ。加えて、心配性で、極端な悲観主義。こちらが守ってあげたくなるような存在であったため、心配をかけぬようにと、母の心理面への影響を優先して、物事を選択するようになる。

●田舎の本家で後継ぎ男子が望まれるなか、望外の次女として誕生したため、父や祖父母ががっかりしていたと8歳にして聞かされ、「わたしは要らなかった子なのだ」と認識。深い悲しみと絶望感を抱えながら生きることとなる。

●真ん中っ子で、家族関係がよく見える立ち位置にあったため、意識せずとも自然と、自分が置かれている状況や、その状況で最適と思われる言動を察知する能力が磨かれる。

●この、望外の次女+真ん中っ子という組み合わせから、「望まれない存在の自分が存在することを許されるためには、せめて親を困らせないようにしなければ」という気持ちを起点に、つまり、他人を軸とした言動を選択するようになる。

●次第に、他人軸の選択がデフォルト化し、そもそも軸が他人にずれている自覚すらなくなっていく。

●思春期の人間関係の困難さも加わり、目の前の現実をとりあえず生き抜くための生存戦略として、本来のピュアな自分へと繋がる扉を完全に閉ざしてしまい、自分の本心を知ろうとすることすらもやめてしまう。

2.自分のこと③ : 思春期の苦悩が残したもの

このような思考癖や行動傾向が、中学時代までにできてしまっていたので、それでなくても悩み多き中学・高校時代は、わたしにとって、一日一日が苦行そのものでした。

自分自身に心を閉ざしてしまっているから、もはや、したいことなどわからない。

したいことがわからないから、いつも、何をしても、心から楽しむことなどできないし、満たされることもない。

なんで、おしゃれの話ひとつで
そんなにも盛り上がれるんだろう?

なんで、そんなにも部活動に
一生懸命になれるんだろう?

なんで、そんなに心底泣いたり
笑ったりできるんだろう?

同級生をながめては、いつも、そう思っていました。

今この瞬間に没頭できる人を羨ましく思い、どうして自分はいつも、どこか冷静なままで、何かに夢中になることができないのだろうと考える。

そんなことを考えてしまうこと自体も苦しくて、「考えること」そのものをやめたいと思うのに、頭が勝手に考え始めてしまうのが、しんどくて仕方なかった。

したいことがわからないのですから、進路を選んでいくことも、もちろん大変に難しいことでした。

中学卒業を控えたときも、高校卒業を控えたときも、進路を決めなければならないけれど、進学したいわけではない。

かといって、すぐに働き始めたいわけでもない。

何を学んでいきたいのかも、将来どのように生きていきたいのかもわからない状態。

今思うと、あの頃の自分は、いったん立ち止まって、ひとり自分と向き合う時間が欲しかったのだろうと思います。

ですが、小さな頃から「すべては自己責任である」とたたき込まれ、「働かざる者食うべからず!」的な雰囲気が濃厚な、厳格な武家を思わせるような家庭でしたから、「疲れた」とか「休みたい」とは、とても言い出せなかったんです…(ー ー;)

当時、両親自身が、親を立て続けに亡くした後、介護も始まり、家業も引き継ぎと、若くして多くのものを背負う状況になっていて、更には、私たち子どもの学費が嵩み経済的にも困難で、決して穏やかとは言い難い状態ながら、必死に働き養ってくれていることが、目にも明らかだったことも影響しました。

捨てずに養ってもらえているだけでも
有り難いと思わなきゃ。

わがままなんて
とても言える状況じゃない。

自分がしたいことは
自立してからすればいいんだ。

そう自分に言い聞かせて、また自分の本心に蓋をして、あえて見ないようにして、立ち止まらずに、親が望む進学校〜大学進学という規定路線を歩むことを選んだのです。

高校を選ぶときも、大学の学部を選ぶときも、興味を持った学校や学部に親から少しでもコメントがつけば、「心配や迷惑をかけたくはないから」と何も言わずにあきらめ、二番目、三番目に興味があったものを選びました。

結果的には、自分に妥協しながらも選び、進んだ先で、かけがえのない経験をする機会に恵まれたり、唯一無二の友に出会うことができたりと、良いこともあり、学ぶことも多く、過去を恨んだり悔やんだりはしていません。

なに不自由なきように育て、存分に学ぶ機会を与えてくれた親にももちろん、感謝しかありません。

ですが、だれでもなく私自身が、自分の本心を認めようとせず、見ようともせず、自分を置き去りにしたままで選択を重ねたことは、あまりにも重たい負の経験として残ってしまった。

なにを選んだかではなく、どういう在り方をしていたかが肝心なんですよね。

自分の本心を見ようとせず、気づこうとしなかったこととは、言ってしまえば、自傷行為のようなものだったと思うんです。

当時はそれが現実を生き抜くための手段だったのだとしても、何よりも大切な自分を、ないがしろにして、誇りに思ってあげもせず、それどころか、居ないもののように扱っていたのですから。

このようにして、幾重にも、幾重にも、自覚すらないまま自分の本心に蓋をしていたものですから、大学に進み、実家という枠から解放されたあとも、「自分の本心からの選択をしているつもりが、実は不安やトラウマ解消のための選択をしていた」ということが続きます。

なにせ、蓋をしていたのだと気がつくことができたのは、ほんのつい最近のなのことですから…。

氷山級のかたまりを溶かすように、何年も何年もかけて、自分の思考癖を観察して、原因を探って、凝り固まったものを少しずつ溶かして、ようやく開けることができたパンドラの箱。

どれだけ封じ込めてたんだって、自分にびっくりしたくらいです、ほんとに…(゚o゚;;

今回で、今までの人生の半分くらいまで来れたかな。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

次回は、その後の「本心と思っていたけど、実はそうじゃない選択をしていた」時期のことを書いていきたいと思います。