嫌いなことから考える

せっかくなら、自分が愛することのできる分野に携わりたい。

そう思ったので大学を辞めてみた。留年や休学を繰り返して7年間も在籍した場所。思い出はたくさんあるけれど、一時期はその全てに敵意を抱いていた。

大学で得た最も有益な学びは、ある事を成し遂げた理由が、成し遂げた後の動きに現れるということ。

私は、大学に進学すること(というか入学試験)を、唯のレースゲーム のようなものだと捉えていた。集団の中での緊張感、教師や親が急き立てるなかで生まれる切迫感も含めて、まるでスポーツのように受験勉強を楽しんだ。前よりも点数が上がることが純粋に快感だった。

そして、私は大学に入学した。

大学での勉強は、はっきり言って全く興味を持てなかった。もちろん新しい知識は得られるし、学生生活はそれなりに面白い。でも私が求めた緊張感と切迫感を伴う「競技」はそこには無かった。大学の勉強というのはまず呑気さの上に成り立っている。

私は勉強を辞め、競技性のあるサークル活動に夢中になった。そこには私が求めるものがあった。友人も多かったし、次第に大学には行かなくなった。寮に住んでいたこともそれに拍車を掛けた。寮にはそういった連中が沢山いたのだ。

そしてサークルを辞めてから、初めて私は「自分のモチベーションで学ぶ人」に出会った。

出会ったという言い方は正確ではないのかもしれない。それまて私が出入りしていた場所にも、そのような人はきっといたのだから。でもそういった人に向き合ったのはそれが初めてだった。彼らは皆それぞれのミッションに向き合っていた。

 地球温暖化を防止したいという展望から田舎で起業をしている人、過去の経験をバネにしてDV防止の活動をしている人、自作のゲームを作ってTGSに出している人、などなど。方向性はそれぞれだ。共通点があるとすれば、彼らは皆「人の言ったことを鵜呑みにする自分が許せない」「自分の過去を無駄にしたくない」「私が活躍したいフィールドは決まっている」というような態度を感じさせた。それは意志というよりは無意識的な性質といった感じのもので、私が後から手に入れられるものなのかは分からない。

 しかしそれは、私が手に入れなければならないものなのだ。そうでなければ、私は一生誰かの唱えるオピニオンを暗唱するスピーカーになってしまうことだろう。それだけはしたくない。

 私がここで述べた事はどれも、「何が嫌か」という内容だが、それも必要なことだ。

 自分のすすむ道を決めるには、進まない道を決めなくてはならないのだから。

 

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