経過観察
兄を亡くしてから4回目の月命日と数日が経ちました。以前の私は月命日という言葉すら知りませんでした。
かかっていた精神科医には、3ヶ月経ったらだいたいのケースで良くなるというようなことを言われましたが、私がその「だいたいのケース」に当てはまっているようには思えません。
精神科医や臨床心理士に会うのはいったんやめてしまいました。最初は良い出会いだなと思うのですが、話しているうちに、限界値が見えてきます。
多分、その限界値が見える理由は、精神科医や臨床心理士は私のことをよく知っているけど、私は彼らのことを知らないからです。彼らがどんなときに強く、どんなときに弱い人間なのか私は知ることができないから、壁に向かってボールを投げているような気持ちになります。
1ヶ月という単位の中で悲しみや鬱々とした感情はぐるぐる巡っているようだということが分かりました。比較的にフットワーク軽くいられる期間が月に7日から多くて10日間ほどあります。
それ以外の期間は、だいたい家に引きこもって、眠ったり、眠れなかったり、泣いたり、病院をすっぽかしたりして過ごしています。
幸い月に何度か友達と会うことはあって、たいていの場合救われています。ただ、社会そのものや、若者の動きに取り残されているという感覚は強く抱いています。私は強くも明るくもいられないから、今は人と関わるのが申し訳ないという気持ちが先立ってしまいます。
遊びに行ったりなどしても、私だけがぼーってしてしまっているときがあるんじゃないかと不安になります。実際、だれとどこにいるか関係なしに、鬱々とした気持ちが急に襲いかかってくることがあります。すごく理不尽です。それでもやっぱり、取り残されても追い立てられても良いから、社会とは繋がっておくべきだなとは思います。
兄を失ってから、言いようもない孤独と戦わなければいけなくなったので、私という個人と社会の関係について考えることが増えました。まあまあタフで大雑把な性格だったはずの私が、ずいぶんトラウマの多い繊細な人間になってしまったような気がして、これ以上傷つかないための殻や他人との間の適度な隔たりを作るのに必死なのです。
卒業制作については、なかなか進まないですね。人生の事実に疲弊しており、なかなか新しいものをつくるエネルギーが湧いてきません。断片的なアイデアが頭の中で繋がってくれないのです。
でも、ゼミ生や、友人がなにかものづくりをしている現場にいくと少し良くなるということが分かりました。人生にあまりに大きなことが起こったので、兄を失う前の私が、何に興味やビジョンや熱意を持っていたのかについての記憶が抜け落ちていたと思うのですが、友人がものづくりをしているところを見ると、少しずつそういったことが思い出せるような気がします。だから手伝えることがあれば卒制の現場に呼んでください。
明日見に行きたい展示や映画があるので、今日の経過観察はここまでとして筆を置きます。次にいつ似たような文章を書くか分かりませんが、良くも悪くも、変化がありますように。