兄の自死について



2021年3月18日 木曜日

私はその日、就活でなんとなく疲れていたから昼間も寝ていて、自炊をするのも面倒で、お菓子を食べていた頃だった。20時30分、母から電話が来た。前日父とも就活のことで電話したばかりだったから、なにか話すことがあっただろうかと思った。電話をとった。落ち着いて聞いてね、と言われた。そういう母の声は落ち着いていなかった。泣いている時の声だとすぐ分かった。母は何度も声を詰まらせていた。私はまず、祖母のことを身構えた。心臓や足の病気を患って長く、入院もしている。しかし祖母のことではなかった。兄だった。まだ25の兄が、自分で命を絶ったというしらせだった。兄が亡くなったのは、父と母が仕事で家をあけていた午後2時くらいのことだった。

母も私も、冷静になろうとしていた。お互いのことを気遣い、電話を切った。声も涙も出なかった。兎角現実味がなかった。私はまず、ベッドの上がお菓子のゴミで散らかっているせいで余計に頭の中が混乱したので、ゴミを片付けた。それから台所に立ち、わかんない、わかんない、わかんない、わかんないってば!と発狂した。直感で、今わたしは1人になってはいけないと思い、電話をかけるべく友人の顔を思い浮かべた。今から家まで駆けつけてくれそうな顔が、何人も浮かんだ。ありがたいことだなと思った。一番最初に電話に出てくれた友人に、何が起きたかを話した。私は動揺し、泣いていた。まず、自分の兄が自殺したということを言葉にしてだれかに伝えてしまうことが本当に怖かった。言葉にしてしまえば現実になってしまうからだ。それを私が、認めていることになってしまうからだ。しかし伝えることには話が始まらないので、伝えた。胸に深深と大きな矢が刺さり、その傷口から黒々としたものが体全体に侵食し、錨のように暗い海の底に深く沈んでいくような感覚だった。友人は私との電話に集中するためにわざわざ外に出てくれたようだった。会ったこともない私の兄のために一緒に泣いてくれ、思いつく限りの言葉をかけて私を励ましてくれた。私は友人に、こんなことがあった家族は、もう幸せになれないのかな?と聞いた。友人はそんなことないよ、と言った。30分ほど話して少し落ち着いた。私はLINEを返してくれた別の友人にも折り返し連絡するために、その電話を切った。

23時30分頃、別の2人の友人が私の家に来てくれた。私は2人が来るまでにたまっていた皿を洗った。台所に出しっぱなしになっていた食品を片付けた。食べものを買うのも、明日のある人間だけがすることだと思った。2人が来て、私たちはしばらくは冗談を言ったり別の話をした。葬儀に履いていくためのストッキングも買ってきてもらった。急な移動で、洗濯も間に合ってなかったから下着がまったく足りていなかった。

友人と他愛もない話をしてどうにか正気を保っていたが、姉からの連絡が来た。私は数時間ほど前に姉に、母から何か聞いたか、とメッセージを送っていたのだ。海外にいる姉は、まだ誰からも何も聞いていないようだった。私は起きたことを伝えること自体が本当に怖かったけれど、どうにか、お兄ちゃんが自殺した、と話した。私は4時間前に訃報を聞いていたので少しばかり落ち着いていたが、姉は私の口から聞いたので当然混乱していたし、堰を切ったように泣き出した。姉とは、このことは家族のだれか1人や、何かひとつのことに原因があるのではないということを確認して、電話を終えた。姉は1週間前に、兄からの電話を受け取っていたそうだ。

私は葬儀のために翌日広島に行かなければならなかった。寝ようと試みたがもちろんだめで、私はこれから会う兄と、母と、父になにか書くことにした。お兄ちゃんへ、突然のことで驚きました、とノートに書いたところで涙が止まらなくなった。過呼吸を起こす1歩手前まで泣いた。友人は肩を貸してくれ、手を握ってくれた。キャンドルをつけてくれた。揺れ動く小さな火を見たら少しだけ心が落ち着いた。友人は会ったこともない私の兄のために一緒に泣いてくれた。私は友人に、兄がどんな人だったか、そして私の家族にこれまでに何が起きたのかを話した。友人は一睡もせずに聞いてくれた。



2021年3月19日 金曜日

朝になり私は、広島に発つために化粧をした。人間の涙袋はこんなに大きくなるのか、と驚くくらい顔全体が腫れていてまるで別人の顔に化粧を施しているようだった。それでも化粧をすると精神がぎゅっと締まり、背筋が伸びるような気がした。友人は完璧だよと言ってくれた。葬儀には行きたくなかった。冥福を祈るというのがどういうことなのかよく分からなかった。人が感情的になる場面や空間が、私は昔から苦手だった。なにより、棺桶で自分の兄が眠る姿を絶対に見たくなかった。見たら現実になってしまう。父は、もし就活でやることがあるならそれを優先していい、葬儀に来るかどうかは自分で決めなさいと言ってくれたけど、家族と一緒に兄のために祈ること以外に優先することなんて私にはなかった。後悔したくなかった。黒いスーツの中に黒いタートルネックを着て家を出た。ちゃんとした喪服は、まだ買ったことがなかった。大切な人が死んでも、お腹はすく。私は出発前に友人とマクドナルドに行き、パンケーキを食べた。私はパンケーキにシロップが染み込んでいく様子を見るのが大好きだったけど、このときばかりは手がずっと小刻みに震えていたからシロップをかけることすら難しかった。ひとくち、ふたくちと食べたところでもうあまり食欲はなかった。でも葬儀場に着く15時頃まで何も食べれないことがわかっていたのでどうにか飲み込んだ。ひとりでいたらきっと何かを食べる気になどならなかっただろう。友人が東京駅まで送ってくれた。昔は人前で泣くのも弱みを見せるのも苦手だったけど、精一杯甘えられるだけ甘えた。家でレターセットを探したときちゃんとしたものが見つからなかったので、本屋で購入した。

新幹線の中で兄への手紙を書いた。毎度の事ながらわたしは乗り物の中で文字を見たり書いたりすると酔ってしまうから、やっぱり手紙はあとにして窓の外の景色を見ながら音楽を聞くことにした。何も聞く曲がない。こんなときに聞く音楽はなんだろうか。考えたこともなかった。背の高いビルや山や工場が流れていって、世界は広いと思った。こんなに広いのに、もうどこを駆け回り、探し回っても兄はいない。私は家族のことや就職のこと、勉強のこと、お金のことなど、これからどう生きていくか考えたが特に考えはまとまらなかった。東京から広島まで4時間。ほとんどの時間を泣いて過ごした。自分はなぜかこんなときに限ってティッシュを持っていなくて、ハンカチと、移動販売員にもらった紙ナプキンでどうにかやり過ごした。人間の目からはこんなに涙が出るのか。新幹線の中で買った静岡のお茶はすっきりとして美味しかった。こんなときでも味覚は正常で、人間は美味しいものを美味しいと思えるらしかった。

広島に着いた。父が兄の乗っていた青い車で駅まで迎えに来てくれた。兄が働き始めてすぐ、ローンを組んで買った青い車だ。兄は車の会社で営業をしていた。私は父に会ったら真っ先に抱きしめようと思っていたけど、できなかった。父は痩せ、これまでで1番小さく見えた。車に乗り込むなり父は私に謝った。ごめん、守りきれんかったと言われた。私は誰かに責任があるわけではないから謝らないでと頼んだが、このあと母にも謝られてしまった。葬儀場についた。怖かったが、兄に会った。そこにいたのは別人だった。顔は土色で、唇は乾いて白く、爪は根元から青くなっていた。別人が横たわっていた。首のところが不自然に隠されていたから、兄の選んだ手段はそういうことだったのだろうか。しかしまだ父からも母からも発見したときの話は詳しく聞けていない。しばらく聞く勇気を出すことは出来ないだろう。祖母や母が、頑張ったね、こうちゃん、と声をかけても返事がないのが恐ろしかったので、私は黙っていた。私は兄に触れなかった。私は母の肩を抱いて、口を引き結んで、兄のからだを虚しく見下ろしていた。父と母と協力し、兄を棺の中に入れた。棺は白い花で飾られていた。いったい私が、兄が、父が、母が、姉が、何をしたというのか。

宿泊室に荷物を置いた。母が喪服に着替えた。母はいっそう痩せ背中は白っぽく、後ろ姿は頼りない少女のようだった。私は結局途中になっていた兄への手紙を、宿泊室で書いた。色んなことが思い出された。

冬にはお揃いのクリスマスプレゼントを一緒に開封したね。一緒に毎日ごはんを食べたね。お兄ちゃんはトマトが嫌いで、私はトマトが大好きだった。お兄ちゃんはあんパンが好きで、私はあんパンが嫌いだった。けんかもしたね。あのときはイスを投げつけてごめん。私にあなたしか呼ばない、おかしなあだ名をつけてくれたね。私はそれが本当は気に入っていた。お兄ちゃんがサッカーボールを追いかけてフィールドを駆け回っているところを、よく見に行った。あのときはあんまり興味がなかったから、もっと目を凝らして見れば良かった。一緒に登校したね。車の中で色んな音楽を一緒に聞いたね。私にたくさんの贈り物をくれたね。水族館が好きだったね。BSでホオジロザメの特集を何度も見たね。私が帰省するたびに、私を車に乗せて遠くまで連れて行ってくれたね。嵐の夜に二人で震え上がったこともあったね。海にも行ったね。帰りに見た夕日が本当に綺麗だった。あのときは風景なんかよりもっとあなたの写真を撮ればよかったのかな。

便箋を折って水色の封筒に入れた。宛名には大きくこどものような字で、おにいちゃんへ、と書いた。あなたのことをおにいちゃんと呼ぶのは私しかいないから、送り主を書かなくてもきっと見ただけで分かってくれるだろう。兄は死ぬ直前に、「10年前に戻ります」と手紙を遺した。10年前に戻りたいのなら、私に言って欲しかった。妹以上に適任な相手などいないだろう。言ってくれればいっしょにテレビでサッカーを観戦し、自転車に乗り、スターウォーズを見てライトセーバーを振り回しジェダイになり、おつかいに行き、とっくみあいの喧嘩をしたのに。私ばかりが先に大人になってしまったような気がして、申し訳ない。

お通夜まで1、2時間というところで親族が集まり始めた。祖父以外の全員が泣いていた。祖父は先程まで、家に留まり自分の部屋で一人で泣いていたそうだ。こんなときは厳格でいなくても良いのにと思ったが、それが彼の正気を保つ唯一の方法なんだろう。叔母や叔父、従姉妹がそれぞれに生前の兄がどんな人間だったか話し、自らがどのように兄の自死を解釈し、どのように後悔しているかを語った。私は近頃の兄の様子について、知らないことが多すぎると思った。

その頃には私は、私の悲しみにはとても波があるということを分かっていた。荒れ狂っているときもあれば、凪いでいるときもある。お通夜の前は、私は少し冷静でいられた。

姉とまた電話した。私は姉が心配だった。日本にいる私たちはお通夜をしたり火葬をしたりして慌ただしく過ごし、見送ることができるのに、彼女は外国で独りだ。パートナーや同居者が寄り添ってくれるだろうが、家族と分かち合うのとは別物だろう。3人きょうだいだったのに娘ふたりになってしまったね、と泣きながら話した。私はこれからは姉と助け合って生きていくしかない。年も離れ、自由で活発な私たちだから意識してお互いを固く繋いでおかなければならない。

お通夜が始まった。私は葬式のことを何も知らなかった。父も何も知らなかった。父は喪主なのに、会館の方に焼香のやり方を聞いていた。私も盗み聞きした。自分の番が来た。心のなかでお兄ちゃん、お兄ちゃんと何度も呼んだ。南無阿弥陀仏、と唱えるのには慣れなかったから。兄もそう唱えられるより、慣れた言葉で話しかけられる方が良いだろう。お経も聞いた。このときもやはり私の悲しみには波があり、肩を震わせて泣いたり突然泣き止んでボーッと献花を見つめたりした。遠方からかけつけた他の親戚が遅れて到着した。最後にお坊さんからの話があり、ご家族の方もお勤めごくろうさまでしたと労われた。このときばかりは少しだけ救われるような気がした。お通夜が終わった。私は母ともう一度棺の中の兄の顔を見た。私はまた、子供の頃みたいに泣いた。また過呼吸になるところで危なかった。お兄ちゃん、と声に出して呼ぶべきか、呼ばないべきか分からなかった。呼んでも返事がないことに何度も絶望できるほど、私は強くない。

お通夜の後、祖父母と一部の親戚がそれぞれの家やホテルに帰り、葬儀場には私の家族と叔母の家族の6人が残った。夕飯の相談をし、父が近くにあるイタリアンの商品券を持っていると言うので私がお店に電話をかけ、テイクアウトを手配した。私は私のことを大人だと思った。兄が死んで、私は3歳くらい急に歳をとった気がする。兄の年齢にはすぐに追いつき、追い越してしまうだろう。ピザはちゃんと味がした。3種類のピザを1枚ずつ、兄にも取り分けた。父や母は、私たちきょうだいが生まれた当時の話をして晩酌した。昨晩一睡もしてない私はようやく眠くなってきた。風呂に入った。風呂は命の洗濯とよく言うが、命の洗濯も生きていなければできないことだ。安らかな夜だった。母は疲れたのかひと足先に眠りについていた。

私は兄の夢を見ようと思い、寝る前にじっと、兄を見つめた。ようやく兄と、しずかに1人で向き合う時間をつくることができた。昼頃に比べると、耳のあたりの色が変化し青っぽくなっていた。私はようやくこの兄のことを別人だと思わなくなってきた。私の記憶の中の兄と棺桶の中の兄は、徐々にひとつの像を結び始めていた。私は書いた手紙を添えた。私の手紙以外に、葬儀に来れなかった母方の祖父や祖母、叔母の手紙がそのまま置いてあったので読ませてもらった。祖父だけが手紙の最後に、さようなら、さようなら、さようならと書いていた。私は、そうか、さようならなんだ、これはお別れなんだ、と思った。私は兄に小さな声で、おにいちゃん愛してるよ、と伝えた。兄が生きているときに、愛してるなんて伝えたことがなかった。返事はなかった。本当は死化粧が崩れるから顔のところを触ってはいけないと言われていたのだが触りたくなって、ケースを少し開けた。思った以上にカタンと大きな音が出てしまったので、怒られないようにそっと閉じた。結局そのときは兄に触ることは出来なかった。父は夜遅くまで、叔父と晩酌を交わしていた。酩酊し、将棋がいつスポーツとして認定されたかなんて、心底どうでもよい話をしていた。気を紛らわすためだと分かっている。

2021年3月20日 土曜日

5時間ほど眠った。私は普段から創意工夫に富んだ様々な夢を見るのだが、その日ばかりは真っ白だった。夢の中で兄と会うことももちろん叶わなかった。これでいいのだと思った。私たちは人生の1/3も眠るのだ。いつか会えるだろう。父は兄を見て、死んでいるのではなく眠っているのだと言う。私たち家族のなかには、1/3眠る私たちと、3/3眠る兄がいるというだけの話なのかもしれない。父は眠れなかったのか、朝5時頃からうろつき始め、たぶんひとりで泣いていた。兄が最後に読んでいた本のページをめくる音がした。母は眠りが浅いながらも、一応私たちの中で1番長く眠れたようだ。少し安心した。家族みんなが今までと同じだけの量を食べ、眠ることはすぐには難しいけれど、できる人から少しずつやっていけばいいと思う。

私は時間があれば、ずっとこの文章を書いていた。右腕が筋肉痛になるほど書いた。右腕の痛みなんて、兄が死ぬ直前まで抱えていたものに比べたらなんでもなかった。書き、何度も何度もはじめから読むことで、私は自分の人生に今どんな試練が起きているのかを理解しようとしている。書いて、読んで、書いて、読んでも、よく分からなかった。SNSを開き今までに好きだったものや芸能人のことを見ても、私の感性はなんの返事もしないことは分かっていた。だから私は兄の葬儀にやってくるまでの私を支えてくれた友人や、心を寄せてくれた親族に対してだけ、最低限の連絡をした。当然ながら、朝起きても悲しみは変わってなかった。むしろそれは狭い部屋の中にぐるぐると立ち込め、いっそう鋭さを増しているような気がした。私たちが何度これから朝を迎えようが、兄はいない。昨日は春めいた晴天の日で、今日は反対に朝から雨だった。しかし兄はいない。広島の街は広い川が多く、海もおだやかで美しい。それでも兄はいない。姉は今から兄を連れた気持ちでドライブするという。父は父で、家に荷物を取りに行くためにいったん葬儀場を離れるらしい。眠れていないのにあまり運転しないで欲しかった。私たちは今、お互いを失うことをなによりも恐れている。コンビニに行くときさえ、必ず連れ添っている。父は以前から少しだけ私に対して過保護だったが、これからさらにそうなるだろう。私も私の心が疲れない程度に、彼らを安心させながら生きていくことにしようと決めた。

本葬の始まる前に、私はようやく兄に触ることができた。まず手に触れた。冷たかった。兄の冷たさは私の掌にもすぐに伝わった。私はこの冷たさを忘れないために、兄に触れた手で、私自身の身体のいたるところを触った。冷たさは直ぐに私の首や腕に乗り移った。それから兄の顔を触った。表面の皮膚は柔らかいのに、内部は硬い。兄は動かない。

本葬が始まった。今回は父の実家に合わせ浄土真宗のしきたりに従うことになっていた。兄には法名がついた。兄はお釈迦さまの弟子になって、仏の仲間入りをするらしい。兄がちゃんとお釈迦さまの弟子をつとめられるのか、少し心配になった。私は映画の中にいるような気分だった。私は何かの役を演じていて、目の前で見ているものはすべて作り物なのかと思った。しかし現実だった。私は私で、兄は兄だった。役などなかった。兄の棺桶に皆で花を入れた。祖母は今朝はやくに買ってきた、兄の好きなお菓子を入れた。祖母はこうちゃんが帰ってくるための交通費だと言って、お金も入れた。痛々しくてたまらなかった。



私は父と母と祖母と棺の中の兄と一緒に、霊柩車に乗った。人生で霊柩車に乗ることがこんなに早く訪れるとは思っていなかった。父は遺影を抱いて助手席に乗った。そんな姿を見たくはなかった。私は後部座席で母と手を握り合っていた。いつもあたたかい母の手が信じられないほど冷たかった。きっと兄にたくさん触れたからだろう。火葬場まで車で30分ほどかかった気がする。昨日から時間の感覚がないので、よく分からない。街の中を車が抜けていくので、カラフルな看板がたくさん目に入った。全部が全部馬鹿馬鹿しかった。火葬場は広くて綺麗なところだった。不気味な清潔感があった。5つか6つある火葬炉はすべて埋まっていた。喪服を着た別の集団を見かけた。私たちもあんなふうに見えているということが不思議だった。街に喪服を着た集団がいても、いつも私には無関係だったから。私たちは第一火葬炉で最後の焼香をした。母の悲しむ姿は、この世にあるどんな言葉でも言い表すことができない。母は、これでもう、誰にも何も厳しい事を言われずに、だれの目も気にせずに、こうちゃんのことを可愛がれるね、と言った。私は最後に兄の顔を見て、私が父と母を守っていくのだと決めた。覚悟とか使命ではなくて、そうすることが自然だと思った。兄に、お父さんとお母さんのことは心配しないでね、と伝えた。私は鉄のドアの向こうに消えていく兄の棺に向かって手を振った。

完全に骨だけになるまで1時間ほどかかるらしい。その間、私たちは休憩室で食事をした。食欲がまったくないわけではないが、ほとんど残した。色とりどりの弁当が虚しかった。父は調子が悪いと言って休憩室から出ていったが、にぎやかな方がましだと言ってすぐに戻ってきた。私はほうじ茶を飲んだ。たくさん泣くから喉がよく乾く。従姉妹たちが話しかけてくれたが、なんとなく笑って流すことしか出来なかった。共通の話題だったはずのことがすり抜けていく。私はほとんど何も喋らず、両親の顔か、庭を見ていた。

兄が骨になった。足の骨が大きかった。サッカーを長いことやっていたからだろうか。背骨はなんとなく細いような、それどころかほとんどないような気がした。私は足の甲などの骨を掴み、骨壷に入れた。母はできるだけたくさんの骨を骨壷に入れてください、と火葬場の人に頼んだが骨壷の大きさにも限りがあった。骨壷は白い布で包まれ、母に渡された。お腹を痛めて産んだ子の遺骨を抱きしめることになろうとは、母は夢にも思わなかっただろう。葬儀のすべての過程が終わり、それぞれの家族がそれぞれの家に帰った。私は両親に、私のこれからについて相談した。兄の死を受け止めてはいるが、悲しみは別問題だということ。今の精神状態の私が何をやれて、何をできないのかまだよく分からないということ。忙しくして気を紛らわすより、兄のことについてじっくりと考えたいということ。率直に言えば大学を留年か休学し、1年間文章を書いたり本を読んだりして静かに過ごしたいが、今の同級生と一緒に学科を卒業したい気持ちもあるということ。私の価値観はいま激しく変化している途中で、兄の死の以前に考えていたような私にとって仕事とはなにかとか、幸せとはなにか、といったことをもとに大事なことを選択をするのは難しいということ。

家に帰った。家に帰るのも本当は怖かった。兄の命が尽きた場所だからだ。でも、家は思ったより安らかだった。玄関に入ってすぐに、兄の靴が見えた。冷蔵庫には兄の名前で生活のメモがあった。兄の部屋に入ると何か物音が聞こえ、兄がいるのかと思った。窓の外で小鳥が泣いていただけだった。私が最後に帰省した数ヶ月前から、少しだけ家具の配置が変わっていた。兄の机には、大学のボランティアサークルを兄が引退するときにもらったのであろう寄書きがあった。父の話によると兄は1ヶ月ほど前から、アルバムを見たり楽しかった思い出のことを話したりと、過去に傾倒するようになったらしい。父と母と炬燵に入り、お茶を飲んだ。兄はお茶を淹れるとき、茶葉を多めに入れる人だったから多めに入れた。寂しかった。喪失感は、心に穴が空いた程度ではなかった。心そのものが空洞になったような感覚だ。ただ、家は葬儀場よりましだった。葬儀場にいたときは、動き回る私たちに対してじっと動かない兄がいて、涙する私たちに対して笑顔の遺影があるのものだから、兄は向こうの世界に行ってしまったと強く思ったのだが、家に帰ってきてからの方がなんとなく兄が近くにいるような感じがした。台所には洗っていない食器が置きっぱなしで、家族がいかに慌ただしく病院に行き、警察と話し、葬儀に向かったのかがよく分かった。

母は兄の部屋を整理し、仏壇を整えた。私と父が手伝おうとしたが、1人でやりたいようだったのでそうしてもらった。母は長いことひとりで仏壇に話しかけているようだった。夕飯を食べた。兄の分も用意した。父は一人で寝たくないと言う。私は父はいびきをかくので本当は嫌だったが、今日ばかりは一緒にリビングで寝ることを許した。ようやくちゃんと眠った気がする。

2021年3月21日 日曜日

父は朝の4時か、5時頃に起きだしてまた所在もなくうろうろしていた。母は昨晩下の階の兄の隣で寝ていたはずだが、気づいたら私の隣にいた。母に、朝ごはんは果物でいいか聞かれた。私は、案外お腹が空いていると答えた。母はじゃあご飯を炊こうと言って忙しなく動き始めた。兄が手のかかる息子だったから、母には世話をする相手がいる方がいいようだ。私は一人暮らしもしているし、身の回りのことなんてすべて自分でできるのだけど、いつもより母に甘えるようにした。犬とかいたらいいのかな、と思ったが犬もいつかは死んでしまうから考えものだ。

朝ごはんを食べ、1人で皿を洗っているとまた涙が出てきた。兄もこうしてここに立ち、皿を洗っていた。何も見るものがないので、友人やゼミの教授や職場の人からもらったお悔やみのメールなどを何度も撫でるように見つめていた。私の兄のことを知らない人に冥福を祈られてもどうにもならないと思っていたが、案外メールを読むだけでも少し心が凪いだ。私が悲しみの最中にあり、その悲しみを想像しようとしてくれている人がいるというだけで良かった。兄のことを考えると時間はいくらでも過ぎていった。延期できるものはすべて延期した。キャンセルもした。すべてのことは人生のどこかで取り返しがつくからだ。死を除いては。

仏壇を見に祖母が家を訪れた。これからのお金のことや手続きのことなどを皆で相談した。祖母は、兄の将来のために500万円くらいの貯金をしていたが、それはすべてこれからの供養やお墓のことに使ってくれと言った。兄に相続させるつもりだった不動産も、ほかの孫に相続させるよりすべて売り払ってくれと言った。皆がそれに同意した。祖母は兄の好きだったヤクルトと饅頭を買ってきてお供えした。仏壇に手を合わせ、父、母、私、祖母の4人は口を揃えて、真面目すぎたね、と言った。勉強や仕事や、生きることそのものが上手くいかなかろうが、兄は実家暮らしなのだから路頭に迷うことはなかった。私だったら幸運だと思って、2年でも3年でも好きなことをして好き勝手に過ごしていたのに。兄は真面目すぎたのだ。私だったらこうするのに、とは考えても仕方のないことだと分かっているが考えてしまう。祖母は毎日でも仏壇に手を合わせにくると言った。私と母は祖母を祖母の家に送り届けた。その際に、私は祖父に呼ばれ、少し話をした。祖父は厳しい人で、昔からよくこうして孫たちを呼び出し、進路や勉強や仕事のことについて話をさせるのだ。昔はこの時間が苦手だったが、今は一人の人間としてちゃんと決めてることがあり、考えていることがあるから怖くはなかった。祖父にこれからどうするか尋ねられた。私はこの数日で少しだけ自分の中でまとまったことを話した。まず、すぐに就活に戻ることはできない。しばらくは兄のことについて考える時間にすると決めた。就職や転職の機会は生きていればこの先いくらでもあるから。1年後や、もう少しかかれば2年後、自分が働いている姿はちゃんと想像できる。でも夢や、やりたいことなどは変わっていくだろう。どうなるか、まだ分からない。全部正直に話した。今までのように自分を大きく見せたり、期待させるようなことは言わなかった。祖父はよく理解してくれた。兄のことについて今はよく考える時間にしなさいと言ってくれた。それがきっとりっちゃんの人生に役に立つよ、と。困ったことがあればおばあちゃんに電話しなさい、その後ろに必ずおじいちゃんがいるから、と言ってくれた。祖父は昔から話の最後には、広島が本拠地だ、帰ってくる場所だ、故郷だ、というようなことを孫たちに強調する。私は福岡で育ったから祖父のそんな台詞を、大して真剣に聞いたことなどなかった。今は違った。兄はよく、広島を好きだと言っていたからだ。広島で生きていきたい、ずっと広島にいる、と言っていた。兄がそう言うなら、今日から私の魂の帰ってくる場所はここだ。


その後、母とショッピングモールに買い物に行った。私は急いでアパートを出てきたものだから下着が足りなかった。ショッピングモールには人がたくさんいて、みんな家族と連れ添ったり、笑ったり、喋ったりしていた。みんな生きているんだなと思った。白い照明が天井いっぱいにあって、頭がぼーっとした。普段だったら買い物にくれば、せっかちな私が母を目的のところへ早足で連れていくのだが、2人してぼんやりしてしまった。なんとか下着を買い、食料品も買った。兄の好きなノンアルコールのビールも買った。夜は父のテイクアウトしてきたお好み焼きを食べて、兄の分も取り分けた。結局また父と母と3人でリビングで寝た。みんな寂しかった。葬儀の次の日はそんなふうに過ぎていった。

2021年3月22日 月曜日

父は早く起きて仕事に出かけた。午前中だけ職場に行って少し調整をすれば、また数日間の休みが取れるそうだ。私が朝起きていちばんに考えるのは兄のことだ。寂しいという言葉がだんだん自分の中で形になっていき、心を占拠していくのを感じる。布団に入ったまま宙を見つめていると、心配した母が私の頭を撫でてくれた。

兄の机から、父と兄が3ヶ月ほど交わしていた交換日記を見つけた。兄が大学生のときのものだ。その交換日記を見れば、不器用で繊細な兄を心身ともに強く健康に生きていけるようにするために、父がいかに努力したかが分かった。口下手で厳しいところのある父が、交換日記なんてそんなに細やかなことをしていたと知り随分驚いた。

食後、母と家の周辺を散歩した。桜がほんの少し咲いている。せめて、兄が春を迎えられたら。美しい桜を見たらもう少し生きようと思ってくれたのではないか、なんて軽薄なことを考えた。兄の写真を印刷した。兄はキャノンのカメラを持っていた。写真には結局あまり興味を持てなかったのか、自身ではあまり使っていなかったので結局私や父が我が物顔で使っていた。兄と尾道や呉に行ったときの写真があるので、家に置く分と祖母に渡す分を刷った。自分の撮った兄の写真はまた、特別だった。なにせ私が思っていた彼の素敵なところや、愛おしいところをそのまま残しているのだ。人間の覚えていられないことを、写真は代わりに記憶してくれる。兄の肌の質感や、何を着ていたか、どんな景色を一緒に見たか、どんな道を一緒に歩いたか、写真は思い出させてくれた。兄のキャノンのカメラを私は形見としてもらうことにした。愛用していたというほど兄はこれを触っていなかったが、このカメラで私は兄を撮り、兄は私を撮った。形見として十分だろう。何より、カメラには眼がある。このカメラで今年の桜や、この先の人生で出会った色んな美しいものを私が撮れば、兄も一緒にそれを見ることができる。

四十九日法要の四十九日というのは、7日毎に7回行われる裁判のことを意味するらしく、兄はそこで生前の行いによって極楽浄土に行けるのかが決まるらしい。子供に優しく、一生懸命仕事もした人だからきっと大丈夫だろうと思うが、気の弱い人なので心配だ。一緒にいてあげようと思う。兄よりも気が強くて弁が立つ私が代わりに答弁し、兄がいかに善い行いをしたか裁判で話してあげなくては。私は兄になにかをもらってばかりだったから。

ひとり暮らしのアパートに帰るタイミングを決めるのは、難しかった。24日に、東京で行われるアイドルのライブにもともと行く予定だった。それ以外に戻る用事はなかったので、キャンセルするか迷っていた。行って楽しめるかもわからなかったし人がたくさんいる明るい場所は疲れるというのはもうわかっていた。でも、生きている人間の光から目を背け続けるのも違うような気がして、荒療治すぎるかもしれないが、段々と行く気にはなっていた。それに月末に姉がハワイから帰ってきて成田に着き、そのまま東京近郊で2週間の隔離生活を過ごさなければいけないことになっていたので、姉と合流するためにも関東へ帰る必要があった。ひとりになるのが怖かったので、私のアパート近くに住む信頼できる友人に連絡し、姉と会うまでの1週間はできるだけ私の家に泊まりに来てもらうことにした。幾分か心が楽になった。それでもやはり、兄が自殺したと言葉にして伝えるのは、息が止まるほど苦しい事だった。

帰るにあたり、一定期間であれど自分のことを自分でする生活に戻るので、自分のやれそうなこと、やりたいことと、できないこと、やりたくないことをノートにまとめた。

やれそうなこと、やりたいこと。美容室で髪を切る。黒染めする。就活の筆記試験対策や語学など、作業的な勉強。犬や猫に触る。履修登録。料理や洗濯などの家事。植物を育てる。ニュースを見る。自分の気持ちを文章に書く。手作業で物を作る。写真を撮る。海に行く。自分のアパートではないどこかに泊まる。友人に会う、ただし事情をすでに話している人にのみ。

できないこと、やりたくないこと。自己分析や面接など精神的負荷のかかる就職活動。人の多い明るい場所へ行く。初対面の人に会う。カウンセリングなどの受診。人の感情を大きく揺さぶり動かすようにできているフィクションを見る。脚本を書いたり卒業制作について考えたりする。元気に明るく振る舞う必要のあるアルバイトや仕事。人と議論して自分の意見を主張すること。


案外、できることも多いような気がしてきた。できないことも、一生不可能だということはないだろう。今までに好きだったものになんの感情も持てなくなったことが怖かったが、また新しいものを好きになればいいし、触っているうちに感性を取り戻すかもしれない。兄が死に、私は生まれ変わった。これまでの私の価値観は白紙になった。兄が帰ってくること以外に欲しいものもなかった。私は私のことを積み上げ、取り戻していく必要があった。

2021年3月23日 火曜日

なぜか、家に鹿がついてくる夢を見た。私のアパートについてきて、手を甘噛みする。広島の家は高台にありベランダから海と宮島が見えるので、宮島の鹿だろうか。それならば神の使いということになるので、悪い夢ではないかもしれない。びっくりした!と言いながら起きた。自分のアパートに帰る日だった。案外、1人で帰れそうではあった。私の部屋も、主が不在で寂しいだろうと思った。月末に姉に会うし、友人も待ってくれている。荷物をまとめた。あんまり頭は回らなかったが、なんとか置いていくものと持って帰るものに分けた。最後に、仏壇に手を合わせた。やっぱり仏壇の前に座ると、兄が死んだという現実が私を動けなくする。マッチを使ってロウソクに火を灯し、線香を立てる。また数週間後に姉と広島に戻ってくるので、少しのお別れだ。

帰る前にお寺に行き、先祖の墓参りをした。兄があんまりにも若いままやって来るから、先祖も驚くだろう。生きている人間なんてほんの一部だ。向こうの方が、人がたくさんいる。寂しい思いをすることはないだろう。きっと向こうでも兄は色んな人に可愛がられ、心配され、助けられるはずだ。以前の私は惰性で墓参りについてきていたが、今は兄のことを先祖にお願いしなければならなかったので、ちゃんと自分で花を選び、茎を切って供えた。

新幹線に乗った。父と母がお弁当を持たせてくれた。父が、兄のところに供えてあったはずの饅頭を私に渡す紙袋に入れていた。兄のために持ってきた祖母のことを考えると申し訳ないが、きょうだいは食べ物を分け合い、取り合うのが常なので、私が貰っても良いだろう。新幹線では、私のひとつ前の席に小さな男の子が座っていて、流れていく外の景色を興味深くじっと見つめていた。兄にも幼い頃、こんな時代があっただろうと思った。昨日や一昨日から、若い男性や小さな男の子を見るとやっぱり兄のことを考えてしまう。手紙を書いたり、兄のことを両親と話していたりしたせいで、色んな年齢の兄の姿を思い出してしまう。学校でサッカーをしている若い男の子の姿などを見かけてしまうと、尚更だ。


死は死でしかない。他のどんな意味も持たない。いたはずの人が永遠にいなくなることでしかない。死は向き合うものではない。絶対的な存在感で、そこにあるものだ。向き合うか向き合わないかを、人間が選べるものではない。簡単に供養できるものでもない。念仏を聞いたところで兄がいなくなったことは変わらないし、死は供養の有り無しであり方が変容するような、そんなやわなものでもない。それでもなんとか、私は供養の方法を見つけたかった。兄のことを供養するというより、自分の気持ちを供養する方法をだ。

私は兄が命を絶ったと聞いたとき、心のどこかで腑に落ちるような、帳尻がようやく合ったような感覚を覚えた。ずっと、生きづらそうな人だった。たまたま、2021年の3月にことが起きただけで、こうなるタイミングは彼の人生にいくらでもあったのではないかと思った。繊細で優しく、誰かからの叱責や助言を真っ向から受け止めてしまう人だった。息抜きが下手だった。サボったりズルしたりできない。人を引き寄せ、人に助けられるのが兄の生き方なのだと勝手に思っていた。人の情を一手に引き受けてしまうような人だった。兄が自分らしく生きられる世界は、少なくとも今私が生きているこの世界軸にはないような、どこか他の国や星にでもあるような、そんな気が昔からずっとしていた。きょうだいとして血を分けたとき、私や姉が分け合って背負うはずだったものを、兄がすべて肩代わりしてしまったのではないかとも思った。

生きるとは、欲深くあることではないだろうかと思った。兄は欲のない人だった。煩悩のない、心の綺麗な人だった。贅沢したいとか、誰かより優位に立ちたいとか、たくさんのものを所有したいとか、そういった欲望が極端に少ない人だったような気がする。人から寄せられる願いや期待に応えようとすることが兄という人間の背骨で、それは細く、軟らかく、ピンと張り詰めておくにはたくさんの力が必要だった。兄はその力を、25年間で使い切ったのだ。

姉とも話したとおり、私は今のところ誰のことも恨んでないし、誰かが責任を負うべきだとも思っていない。やるせなさはある。けれども、母やほかの親戚が言うように兄の寿命は最初から25年と定められていて、走り抜けた結果が今だという気もする。両親は全力を尽くしたし、兄を愛していた。兄もきっとそれを分かっていたと思う。それでも、もう兄はいないのだ。世界は、わたしの優しいたった1人の兄をもう二度と会えない場所に攫ってしまった。

もちろん、家族は完璧ではなかった。私も父も母も姉も兄も、全員に悩み苦しむことがあっただろう。家族だからといって、必ずしも上手に、一緒に生きていけるようには作られていないと私は悟っていた。私も14から18歳くらいの頃まで、家族については考えこんだり反発したり余所の家庭と比べるなんてことがいろいろあったけれど、成人する頃には自分の中ですべて理解と精算がついていた。両親が2人とも健康で、経済的にも何不自由ないとあれば、それ以上に望むことなどなにもないと考えていた。痛みに蓋をして私は大人になった。痛みは思春期特有のものだったと解釈した。私は大人になるにつれ、どんどん生きるのが楽になっていった。兄は、そうではなかったのだろう。兄が取り残されていることに、私は早く気づけば良かったのだろうか。もし気づいていたとして、私に出来ることはあっただろうか?

それでも私たちは家族は努力していたと思う。分かり合おうと対話した。お互いを愛していた。どうして私の家族がこんな仕打ちを受けなきゃいけないのか、考えても考えてもわからなかった。街を歩く人のうち、自死で家族を亡くした人はどれくらいいるのだろう。今は誰とも、分かり合えないような気がした。私たちは言葉が過ぎてお互いを傷つけることがあっても、そこに愛がないことは一度もなかった。でも愛があればすべてが許されるわけではない。それがどうしても難しい。

街を歩く人のうち、自死で家族を亡くした人はどれくらいいるのだろう。今は誰とも分かり合えないような気がした。東京駅には、スーツを着て就活に向かう大学生の姿がたくさんあった。私もその1人になるはずだった。ただ就活についてはもう自分の中で整理ができている。諦めたわけではない。来年に回してもいいと思っている。それぞれのタイミングがある。生きてさえいればいい。思い詰めなくてもいい。

何をするにしろ、私はこれからも生きていく。それ変わらない。私は私の中の兄と生きていくのだ。私はこれから先の人生で色んな人に出会い、色んな景色を見るだろう。そのすべてに、私は兄を連れていく。兄にとってこの世界は生きづらかったとしても、地平線の先はずっと続いている。私が兄をいろんなところへ、これから連れて行くのだ。そう決めておかなければ。

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