能「源氏供養」

能「源氏供養」

季三月
ワキ 安居院の法印
ワキツレ二人 従僧
シテ 里の女
 後シテ 紫式部の霊

ワキ、ワキツレ二人、次第「衣も同じ苔の道。/\。石山寺に参らん。」ワキ詞「これは安居院の法印にて候。我石山の観世音を信じ。常に歩を運び候。今日もまた参らばやと思ひ候。」道行三人「時も名も。花の都を立ち出でて。/\。嵐につるゝ夕波の。白河表過ぎ行けば。音羽の瀧をよそに見て。関の此方の朝霞。されども残る有明の。影もあなたに鳰の海、実に面白き景色かな、げに面白き景色かな。」下歌「さゝ波や志賀唐崎の一つ松。塩焼かねども浦の波立つこそ水の。煙なれ立つこそ水の煙なれ。」

シテ詞呼掛「なう/\安居院の法印に申すべき事の候。」ワキ詞「法印とは此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。」

シテ「我石山に籠り。源氏六十帖を書き記し。亡き跡までの筆のすさび。詞「名の形見とはなりたれども。かの源氏に終に供養をせざりし科により。浮ぶ事なく候へば。然るべくは石山にて。源氏の供養をのべ。我が跡弔ひてたび給へと。此事申さんとて。これまで参りて候。」

ワキ詞「これは思もよらぬ事を承り候ふものかな。さりながら易き間の事供養をばのべ候ふべし。さて誰と志して廻向申し候べき。」シテ「まづ石山に参りつゝ。源氏の供養をのべ給はゞ。其時我も現れて。共に源氏を弔ふべし。」ワキ「嬉しやそれこそ奇特なれ。いで源氏を書きしは。」シテ「恥かしや此身は浮世の土となれども。ワキ「名をば埋まぬ苔の下。」シテ「石山寺に立つ雲の。ワキ「紫式部にてましますな。」シテ「恥かしや。色に出づるか紫の。」地「色に出づるか紫の。雲も其方か夕日影。さしてそれとも名のり得ずかき消すやうに。失せにけりかき消すやうに失せにけり。」

ワキ「さて石山に参りつゝ。念願の勤事終り。夜も更方の金の声心も澄めるをりふしに。」ワキツレ「ありつる源氏の物語。誠しからぬ事なれども。」ワキ「供養をのべて紫式部の。」ワキツレ「菩提を深く。」ワキ「弔ふべきなり。」ワキ、ツレ二人 歌待謡「とは思へどもあだし世の。/\。夢にうつろふ紫の。色ある花も一時の。あだにも消えし古の。光源氏の物語。聞くにつけてもそのまこと頼少なき。心かな頼少なき心かな。」

後シテ一声「松風も。散れば形見となるものを。思ひし山の下紅葉。」地「名も紫の色に出でて。」シテ「見えん姿は。恥かしや。」ワキ「かくて夜も深更になり。鳥の声をさまり。心すごきをりふし。」詞「灯の影を見れば。さも美しき女性。紫の薄衣のそばを取り。影の如くに見え給ふは。夢か現か覚束な。」

シテ「うつろひやすき花色の。襲の衣の下こがれ。紫の色こそ見えね枯野の萩。もとのあらまし末通らば。名乗らずとしろし召されずや。」ワキ「紫の色には出でずとあらましの。言葉の末とは心得ぬ。紫式部にてましますか。」シテ「恥かしながらわが姿。」ワキ「その面影は昨日見し。」シテ「姿に今もかはらねば。」ワキ「互に心を。」シテ「おきもせず。」地「寝もせで明かす此夜半の。月も心せよ。」石山寺の鐘の声。夢をも誘ふ風の前。消えしはそれか灯の光源氏の。跡とはん光源氏の跡とはん。」

シテ「あら有難の御事や。何をか布施に参らせ候ふべき。ワキ詞「いや布施などとは思もよらず候。とてもこの世は夢の中。昔に返す舞の袖。唯今舞うて見せ給へ。」

シテ詞「恥かしながらさりとては。仰をばいかで背くべき。いで/\さらば舞はんとて。」ワキ「もとより其名も紫の。シテ「色珍らしき薄衣の。ワキ「日もくれなゐの扇を持ち。シテ「恥かしながら弱々と。」ワキ「あはれ胡蝶の。」シテ「一遊び。地次第「夢の中なる舞の袖。/\。現に返す由もがな。」シテ「花染衣の色襲。」地「紫匂ふ。袂かな。」「それ無常といつぱ。目の前なれども形もなし。」

地「一生夢の如し。誰あつて百年を送る。槿花一日唯おなじ。」シテサシ「こゝに数ならぬ紫式部。頼をかけて石山寺。悲願を頼み籠り居て。此物語を筆に任す。」地「されども終に供養をせざりし科により。妄執の雲も晴れ難し。シテ「今逢ひ難き縁に向つて。地「心中の所願を発し。一つの巻物に写し。無明の眠を覚ます。南無や光源氏の幽霊成等正覚。クセ「抑桐壷の。夕の煙すみやかに法性の空に至り。箒木の夜の言の葉は終に覚樹の花散りぬ。空蝉の。空しき此世を厭ひては。夕顔の。露の命を観じ。若紫の雲のむかへ末摘花の台に座せば。紅葉の賀の秋の。落葉もよしや唯。たま/\。仏意に逢ひながら。榊葉のさして往生を願ふべし。」シテ「花散る里に住むとても。地「愛別離苦の理まぬかれ難き道とかや。唯すべからくは。生死流浪の須磨の浦を出でて。四智円明の。明石の浦に澪標。いつまでもありなん。唯蓬生の宿ながら。菩提の道を願ふべし。松風の吹くとても。業障の薄雲は。晴るゝ事更になし。秋の風消えずして。紫磨忍辱の藤袴。上品蓮台に。心を懸けて誠ある。七宝荘厳の。真木柱の本に行かん。梅が枝の。匂に移る我が心。藤の裏葉におく霜の。其玉鬘かけしばし朝顔の光頼まれず。シテ「朝には栴檀の。蔭に宿木名も高き。」地「官位を。東屋の内に籠めて。楽栄を浮舟に喩ふべしとかやこれも蜻蛉の身なるべし。夢の浮橋を打ち渡り。身の来迎を願ふべし。南無や西方弥陀如来。狂言綺語を振り捨てゝ紫式部が後の世を。助け給へともろともに。鐘打ち鳴らして廻向も既に終りぬ。

ロンギ地「実に面白や舞人の。名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん。蓮の花の宴は頼もしや。地「実にや朝は秋の光。シテ「夕には影もなし。地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ。定なの浮世や。

キリ「よく/\物を案ずるに。/\。紫式部と申すはかの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり/\。


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