いったいどうすればいいの まだご冥福を祈れませんー日本と私の作家、橋本治を憶う。


2019年1月29日 橋本治が死んでしまった。

時折想像していた。死なれてしまったら、わたしはどうなるんだろう?と思える人。

萩尾望都先生と橋本治先生。

この二人は、自分にとっては精神的な支柱であり、この世界を肯定するための、言うなれば神様のようなものだ。もちろんお二人とも人間であり普通の日本人なのだから、神様扱いされても甚だ迷惑に違いない。

だからファンレターも出したことがない。(いや萩尾先生には中学の頃までは毎年出していましたが、以降はありません)会いに行けるイベントにも参加したこともないし、参加できると考えたことすらなかった。

他人を神様扱いする人間は、気持ち悪いものだ。だけどしてしまうんだから気持ち悪いことをしないためにも、自分が気持ち悪い存在だと自覚しないためにも、ただひたすらにただの読者であり続け、遠くから憧れ続けていた。10代のころから50も半ばを越えた今に至るまで、いつの時も神様は心の中に、生き続ける。

だからその神の一方。橋本治が死んでしまうなんて、思いもしなかった。

いや長い読者なのだから橋本さんが難病で長く入院していたことも、このところは病気がちなのも知っていた。それでも次々出版される本の数を見れば追いつく間もないほどで、やっぱり不死身なんだ、と勝手に安心していた。

でも、それは真逆であって、やっぱり人間だったんだよ…。当たり前のことだし、この世界ー社会の総体であり個体である人間ー日本人の有り様を、この40年間ひたすらに言葉にしてきてくれていたのが、作家橋本治ーではなかったか。

『桃尻娘』に始まる「現在」に生き得る言葉と「現在」を様々な視点から語り尽くすエッセイや社会批評の作法の連なりと、『枕草子ー桃尻語訳』に代表される古典の現代語訳や、源氏物語、平家物語ー日本文学の源流とされるもの、歌舞伎や義太夫といった古典芸能への解釈と口伝(それは時代時代、日本の人々の暮らしについてでもあった)わたしは後者のよい読者ではなかったが、この一見「違うジャンル」は、決して分断されていない。

橋本治は、徹底的に「日本」と「日本語」に拘った作家だったと思う。だからといって彼は、右翼でもなんでもない。ただ自分が日本人だから、日本語と日本人 つまりはー私ーを表そうとしただけではないか。そしてー私ーは、全ての世界と決して無関係ではありえないのだということを。

わたしが、初めて「出会った」と感じた橋本治の言葉は、ご多分にもれず『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、1979–81年)という少女マンガ評論集だった。高3の時だったか、もう大学生になってたか・・。

萩尾望都論や大島弓子論。それまで男の人が男の立場で少女マンガを論じることはあったけれど、少女の視点から少女マンガを論じるものは、どこにもなかった。橋本さんも当時は30くらいの青年だったけれども。男の子に愛されたい=この世界に肯定されたいと無意識に願う少女のー欲望ーの所在を彼は知っていた。

なぜこんなにわかるんだろうか? と不思議で仕方なかった。後に同性愛者であることを公言したことから、納得する部分はあった。でも当時は、そんなことよりも、こうやって少女マンガについて語ってもいいんだ。こんな風に話せるんだという事実自体が、わたしにとっての大きな衝撃であり、胸に灯る希望となった。

思春期から大人になるまで、少女マンガだけが、ーわたしーの生きえる居場所だったから。

「私は私へ」

何かに惑ったとき。いつもいつも、大島弓子論で語られた、この言葉を思い出す。

薔薇の花一輪を胸に。寄りかかるように歩いていた。

ー大島マンガの一コマが脳裏に蘇る。鮮やか過ぎる。

橋本治さんー

あなたの言葉は、わたしが寄りかかり続けてきた、一輪の薔薇でした。

















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