『止めたバットでツーベース』村瀬秀信著(双葉社刊) 男たちは、野球を生きるーわたしたちは? 真面目な書評風ーその3


ー野球と応援ー

そろそろ終わらなければならない。

本書は、野球の本というより、野球の周りにいる人々についての本である。目立って焦点を当てられているのは、応援するということ。

18本の逸話の中に登場する、ヤクルト芸術家もヤクルト弁当屋もマリーンズ大応援団を指揮した男も横浜ベイスターズ狂プロレスラーも鈴木誠也のお父さんも、和歌山の小さな村、中津村から甲子園へ中津分校を送り出した人々も、誰も彼もが、頼まれもせず、一銭のお金にもならず、むしろどんどんお金を吸い上げられる一方にも関わらず、それぞれの目の前にある野球を応援しつづける。

そんな人々の姿を追いかける、ライター村瀬秀信自身も、横浜ベイスターズの熱心なファンなのだが、自分が球場に応援しに行くと負けてしまうジンクスに悩んでいると書かれてある。(まるで『マネーボール』のブラッド・ピットみたい?)

なぜ、彼らは、わたしたちは、こんなにも野球を応援するのだろうか。

ていうかー野球ー って何?

おそらくー野球ーとは、実際にプレーされている野球や、プレーしている選手と、それを見つめるしかない、わたしたちの間にあるー( )ーだ。言葉にならないような、それぞれのもの。

多くの男たちは、男の人生とやら男のなんちゃらやらを「男の世界」たるプロ野球に自己投影して、むしろ自分自身を応援するために、贔屓の選手や球団を応援している。気がついてないかもしれないけど。そうだと思う。

俺が、生きていくために。野球は必要だ。

そうでなければ、本書に書かれるような男たちの、狂気のごとき執拗さ、貪欲さは出てこないはずだ。自分自身が生きるためなんだから必死になる。周りに何を言われたって後ろ指さされたって、やり続ける。

この本には、わずかにしか出てこないけれど、ではなぜ、女であるわたしたちは、自分自身には関係ないような「男の世界」を愛し、応援するのだろうか? 

これも生きていくためだ。このどうしようもない世界で、なんとか生き延びようとする。一つの手段だ。中学生のわたしがそうであったように。

男には、わからんだろうけど。

女からみてカッコいいイケメン選手がいるからとか、そういうこともあるけど、そういうことだけじゃないから。イケメンじゃないブサメン大好きな女性ファンだってたくさんいるんですから。そうじゃないんだよ。

答えはわたしもまだ出ていないので、またの機会に譲るとして。どちらにせよ。

最終章ー止めたバットでツーベース

生きるー

野球を巡る18話。本書の成り立ちは、死ーから始まっている。

作者は、病院の検査で死の病かもしれないと告げられ、慌てたように、自分のこれまで書いてきた文章を集めた本を出したいと編集者に持ちかける。

タイトルと同名の最終章「止めたバットでツーベース」は、書き下ろし。野球コラムでも評伝でも、ルポでもない。この書評風の長い感想文の冒頭に述べた。私小説だ。

まだ40代だというのに、死の不安に苛まれ、どうすりゃいいんだと惑う主人公。並走する2017年、日本シリーズに3位から進出しようとする、下克上DeNa横浜ベイスターズの試合展開。惑いの中、偶然出会う、お坊さまになっていた小学校の同級生。秀逸なエピソードが(まじかよ?)事実は小説より奇なりという言葉を思い出すように、胸を打つ。

主人公の受難は続く。さらに日本シリーズの試合展開と重なり合い、絶妙のコントラストを描きながら、怒涛のラストにたどり着く。

さあ、果たして、彼は死ぬのか生きるのか。

わたしは、すでに述べた。「私小説」の真実は、事実とは別のものだと。事実かどうかは、批評の対象にはならない。「私」が吐露する言葉が描き出すもの。そこに真実を読み取るかどうかが大事なことなのだ。

『止めたバットでツーベース』

大きな世界の諸問題からすれば、取るに足りない市井の暮らしの中で息づく「私と野球」の関係は、どうしようもなく生きていくしかない、わたしたちの、生きてみようとする意志の所在を照らし出す。

それが、たとえどれほど滑稽で悲惨で哀れに見えたとしても。逆にどれほどかっこよく、明るく、楽しく、素敵であったとしても。どれにも当てはまらないとしても。

生きてみようとするには、変わりない。

                               了


         


































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