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きみが好きなのは肉体か意識か

死者再生技術がこの先発達していくとして、たとえば人間の限界が肉体に縛られているのだとすれば、魂だけを別の器に移しては私たちは生きていくのだろうかね。あぁでもないこうでもないと私は毎日自分の外見を嫌っているのだけれども。
じゃあ、私自身の魂だけをのこして誰かに移すことが出来るのならば幸せを手に入れる事が可能なのでしょうか。
こんな事を考えては「私の可能性」を否定している。外見が先天性の才能であれば、それ以外の才能ってのは後天性だとおもうのだけれども。だって後天性の才能っていつ開花するか分からないし。そもそも自分にそれが備え付けられているのかなんて生きていくしか分からないのだし。だけど、うまれた時から、その、先天性のものが備え付けられてさえいれば、私の性格はもっと可愛くなっていただろうし、もっと世界が優しくて、もっと世界に対して私自身も優しくできたのだと思う。そうなっていれば、もう少し生きやすかったのかもしれないね。て。

今の肉体を離れ、魂だけを誰かに移し替えて、そして私は誰になるのでしょう。思考はきっといつだって私だと信じているけれども、外の器が変わってしまえば、分かりやすいところだと運動量とか、身体つきも、声だって、今と相違がでてくるでしょう?変わってしまった世界で、私は身体に魂が引っ張られて、いつの間にか肉体の持ち主と同じ思考に変わってしまうのかな。私じゃない誰かに。それとも魂が肉体を引っ張って、肉体は私にフィットして、もしかすると、私が再生されるのだろうかね。そんな事を考えていると、私という人間はどこをベースに構築されているのだろうと不思議におもうね。与えられた肉体の中で生きていけるように、魂も思考も構築されたのか。魂と思考についていける肉体を与えられたのか。
死ぬときって、どっちが先に止まるとおもう?身体か思考か。
身体が先に動かなくなって、残された思考で何かを思うのかな。
それとも、思考が先にとまって、残された肉体で何かを感じるのかな。
へんな感じがするね。私って、ぜんぶを含めて、ひとつの私のはずなのに、どうも別々な気がするのよ。

さみしいっておもう。どちらかを欠損することが出来るのであれば、きみをすきなことも、すきだったことも、きれいに忘れられて、さみしさなんてなかったことにできるような気がします。
そして、欠損したところを補うようにあたらしい私が少しずつまた作られて、さみしさを知るまでは、きっとさみしさなんてこの世にない、子どもの頃みたいに無邪気にこの世界に生きていけるのだとおもうのです。違うでしょうか。
その繰り返しでもいいから、さみしさから抜け出したい。わたしが私であるから寂しさがなんどもやってきてしまうのです。かなしいね。どうしようもないこと。
死者再生技術が発達したとして、たとえば君のすきなあの子の中に私の魂が転送することができるようになるとして、きみは私を、あの子の中にいるわたしを愛してくれるのでしょうか。それとも私は、あの子の肉体で生きていくことが耐え難く嫌になるのが先でしょうか。答えのでるはずがない問いを何度も自分にしている。

きみはさ、あの子に、肉体と意識、どちらのせいで愛されないのだと思う?


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