『どうする家康』に学ぶ、 260年間の平和な世の中のつくり方

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス


 NHK大河ドラマ『どうする家康』を観ていて、なぜ徳川幕府は260年も続き、しかも平和であったのか?と思いました。信長9年、秀吉13年で終わっているのに、です。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」はドイツ・ビスマルクの格言です。ガザ問題、ウクライナ問題、はたまた今の日本は北朝鮮や台湾の状況がどうなるか分かったものではない昨今、歴史に学びたいものです。カチカチやデジタルとは全く縁遠いですが、日本やばいな、と感じることも多く・・・私見を述べてみたいと思います。
     世界中の人が、平和なクリスマスを送れますように!Merry Christmas!


1、厭離穢土欣求浄土


 家康は、国家の生命とは何かを知っていたように思います。
 厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど・穢れた国土を嫌い、浄土のような世の中を心から願おう)」
戦の時にも、この美旗をあげて戦っていました。
 俗に「その国の伝統精神文化を忘れた国は崩壊が早い」と言われています。今風の言葉でいうとアイデンティティクライシスとも言われるかもしれません。文化というものは、その国の人たちの「行為の結果」であり「蓄積」。何もしないという中では文化は生じないのです。
 思想哲学が大切な現代なのではないしょうか。


2、家康は「学ぶ人=読書ぐせ」であった


 徳川家康の幼少期は悲惨としか言いようがありません。
 そもそもおじいさんもお父さんも身内に斬られて亡くなっています。その体験より、部下は斬りつけてくるかもしれないという緊張感で生きることを強いられました。しかも、3歳で母と生き別れ。死に別れ、ではないのです。権力があるかどうかの問題で、実母があそこにいると分かっているのに会えないのです。そして6〜19歳まで人質となりました。
 人質で自由に外出できない分、「本」しか友達がいなかったとも言えます。「貞観政要」「吾妻鏡」など、将来に及ぶ指針を示すバイブルとも出会い、ここで思想哲学を体得するのです。
 本を読んでいるかどうかでその人の思想哲学があらわれる事があります。秀吉や信長は、この部分がまず欠けていたのかもしれません。


3、最大の危機を乗り越え、最高の教えとする


 「関ヶ原にあらずして小牧にあり」
 家康が天下人になる決め手となったのは、関ヶ原ではなく、小牧長久手の戦いとも言われています。しかし、私はその後の「小田原攻め」に成功したその日であると思います。駿河・遠江・三河・甲斐・信濃と誰もが羨むようなマーケットを与えられていたのに、秀吉からいきなり「関東に行け」と言われたのです。当時、関東は治安の悪い沼地。しかしこれを拒否すると命はありません。即座に間者を視察に行かせ、2週間もしないうちに城の建設を開始したのです。その決断力は見事としか言いようがありません。
 関東=治安が悪い場所→商人が出て行こうとしない→マーケット不成立→ものを作っても遠くに送らないと農工業衰退→税金が取れない→大勢力が減少→最先端の軍事力減少→兵力削減→紛争勃発→統治力悪化という秀吉が描いた「自滅サイクル」を全てをその逆張りとしたのです。つまり、発展のサイクルは、うんと治安が良好→市場が拡大→農工業が活発→財政力豊か→鉄砲買い込める→軍隊の組織化→犯罪減少→統治力上がる→完璧な平安地帯、全部がうまく回っていく、というものであったのです。
 まさにピンチをチャンスに変える。最大の危機を最高の教えとする姿勢が江戸時代260年間の平和へとつながったと言えます。
 

4、真っ先に発令「百姓切り捨て禁止令」


 家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したのが「郷村法令=百姓切り捨て禁止令だった。なんて「民想いなリーダー」なのかと感動します。
それまでは、農民は武士に斬られても文句一つ言えなかったのです。むざむざと道端で意味もなく殺されることも多かったに違いありません。しかし、国のリーダーたるもの「民のための幸せお世話係」、民は何を一番に望んでいるのか?と考えた時に、家族みんなで平々凡々かもしれないけど普通の暮らしがしたい、ではないでしょうか。それまで、戦乱の世の中で戦に駆り出されるだけでなく、家も焼かれたり、家族も斬られたりしていた民にとっては、いちばんの願いだったのかもしれません。
 「時代の要請」にきちんと対応した政策を立てている、と思います。
 このほか、社会規範を整えるために、林羅山や金地院崇伝などの朱子学者を文科大臣のような立場で迎えたり、大航海時代から近代のシステムを導入したり、「時代の要請」に応えた例は枚挙にいとまがありません。
 今の東京の地理を考えると最もすごいと思うのは、利根川の付け替えです。それまでは関東平野から東京湾に注いでいたため、沼地でどうしようもない土地でした。その利根川を改修工事を施し、「川」を交通の要所として捉えます。今でいうと川の高速道路化です。沼地でなくなった土地は豊かな農地となり、川は物の運搬を容易にし、江戸はどんどん栄えていきます。
 時代の要請に呼応するような政策は、国内外からの豊富な知見と何よりも裏打ちされた思想哲学であったとも言えます。


5、「子どもは国の宝」が貫かれている


 江戸の教育は6歳で藩校に入学します。その歳までに家庭教育では、四書五経を自然と空で言えるくらいまでにします。
 入学してまず最初に学ぶのは『大学』の「大学の道は明徳を明らかにするにあり」から始まります。「大学=Grate Learning、大いなる学び」は「徳を明らかにする=他者に最善を尽くす」ということだよ、と。なぜ学ぶのか、は他者に最善を尽くすところからだよ、と。
 「子供にとって、自分の頭にあるこの言葉はこういう意味で、それはあなたがこれから生きていくための人生の要点だよ。」と言われたらどうでしょう。「おお、そうなんだ!また明日も学校に行って、人生の要点を学びたいな」と思うのではないでしょうか。
 その他、江戸の教育は胎教にも通じます。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい、江戸の人は喧嘩っ早いと言われていましたが、妊婦さんが近寄ってきたら、ピタッと喧嘩を一時中断して通り過ぎるのを待ったとも言われています。お腹の中にいる時から胎児は聞いて、ここから学んでいるということを知っていたからでしょう。そのこともあり、数え歳は妊娠した時から始まります。
 「子どもは国の宝」 人材育成にも非常に力を入れた時代とも言えると思います。


最後に

   家康を研究していくと、もっともっと凄いと思うことが多いのですが、何よりすごいのが思想哲学の学び方とそれを活学、応用しているという点です。
 今年も残りわずかとなりました。来年もまた歴史に学び続けていきたいと思います。

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