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父の職人時代と阪急ブレーブスの話

今回余分な話が多すぎたので、文末に注釈として移動しました。
本文に関係ない余談にも程があるのでお時間のある方のみどうぞ。
24.2.23見出し画像を追加しました。職人になって間もない頃の父が、西宮球場前の広場で撮った写真のようです。

父は紳士服の職人でしたが、そもそも私から見て父方の祖父、父の父親がそうだったもようです。
まず祖父の話からすると、明治生まれで三重県出身、結婚した時には兵庫県尼崎市(当時は川辺郡)在住でしたが、祖父が三重を出て兵庫で修行するまでの詳しい事は分かりません。
生まれ年からすると戦争に行っててもおかしくなかったのですが、母曰く、縫製という特殊技能を持ってた祖父は兵役を免除されたとのこと。
原爆が落とされる前日に広島に行く予定がなくなり命拾いしたという話も聞いた気がするんですが、夢路いとし喜味こいし師匠のエピソードと混同してたかもしれません。(※1)
父は中学卒業と共に三重を出て西宮にあった老舗の紳士服店で修業していましたが、そもそもが祖父がそこで修業したようで、祖父はそこの娘さんと結婚したようです。すなわち父の母、私の祖母です。祖母は早くに亡くなり私は顔すら知りませんが、つまりは、父の修行先は母の実家だということのようでした。

そのお店は西宮北口にあり、西宮球場が目と鼻の先で、お店には阪急ブレーブスの選手がお客さんとしてよく来ていたそうです。
西宮というと阪神甲子園球場を思い出す方も多いと思うんですが、西宮には阪急西宮北口駅前に「西宮球場」という、阪急ブレーブスのホーム球場もありました。
阪急ブレーブスは現オリックスバファローズの前身というか、阪急から身売り後オリックスブレーブスとなり、そののちイチロー選手が所属して有名になったオリックスブルーウェイブになります。(※2)
1991年、オリックスブルーウェイブになった時点でホームは神戸に移りましたが、西宮スタジアムはその後もアメフトなどで利用され、2002年にその歴史を閉じました。
ダウンタウンの浜田さんが西宮球場に野球を見に行った話をしておられたのも思い出します。客席から周囲の大人がバルボンにヤジ飛ばしてた話とかね。さすがに私は生まれる前ですが。

父は生まれた時の住民票は尼崎にあったようですが、戦争が激化したあたりから祖父を残して三重県に疎開したようです。
当時の西宮、神戸方面の空襲の激しさは小松左京先生の小説「くだんのはは」に詳しいと思います。私は石ノ森章太郎先生の漫画版で読んだのですが、作中に宝塚出身の手塚治虫先生が特別出演してたりする遊びもありながらも描写はリアルで臨場感がありました。
西宮球場ができたのは1937年、奇しくも父の生まれた年ですが、どうやら戦禍を免れたようです。祖父が残っていた時点で経済活動は成立していたのでしょうか。

父が紳士服店で修業していたのはおおむね昭和30年代で、当時のプロ野球選手はステータスとして服装を整えていたようです。(※3)外国人選手も来たと聞いた覚えがあります。お金も持っていたので紳士服店としては上客だったそうです。
その当時の選手は私が聞いても正直よく分からなかったですが、父は世代も近かったのもあるのか仲良くしてもらって、一度二軍の練習に紛れ込んで打席に立たせてもらったそうです。
ピッチャーは二軍のピッチャーだったそうですが、打席に立った父は全く球が見えなかったそうです。素人が打席に立っていたから手加減はしたはずですが、二軍といってもやっぱりプロはすごいとよく話して聞かせてくれました。

私がプロ野球を見始めた時には阪急ブレーブスはすでにオリックスブルーウェイブとなり、阪急という球団は伝説という形で見聞きするにすぎませんでした。しかし往年の名選手が解説者として活躍していたり、日ハムのファンだった私にとっては阪急の黄金時代指揮をとった上田利治監督の就任も大きく、父の逸話もあり親しみを感じる球団であります。
西宮球場は西宮スタジアムとなって今はもうありませんが、一度行っておきたかったなと思っている球場のひとつです。

上田監督で一つ思い出したことがあるので、文末で※4として書いておきますのでよろしければ。


※1 弟こいし師匠が兵役に就いた際、広島に配属され被ばく、幸いケガもなく大阪に帰ってきたら、死んだと思われていたので大騒ぎされたという話があります。その後も重篤な後遺症はなかったそうです。
※2 私はイチロー選手のルーキー時代が載った週刊ベースボールを持っていました。今も残っているかどうかはちょっとわからないですが、お便りコーナーに自転車で暴走族の真似をして遊んでいた二軍時代など投稿されていました。ほほえましいですね。
※3 80~90年代の野球選手のステータスだったらしい金ネックレスと大違いです。特に近鉄の選手に顕著でしたが、プライベートではパンチパーマに金ネックレスにストライプのスーツで、今見れば反社です。大石大二郎選手とか初めて契約更改でプライベートの姿見たときはショックでしたね…あの、小石小二郎とか小さいのに大ちゃんとかヤジられてた愛らしい人がパンチパーマって…。
※4 日ハムが優勝争いをしてた1996年、9月に上田監督の辞任騒ぎがありました。ご家族の事情で騒ぎになって球団に迷惑をかける前に、というご決断だったようですが、それとはほぼ無関係にその時期に上田監督のご自宅に間違い電話をかけてしまったかもしれない思い出があります。
当時ラジオを聞いていた父から懸賞があるから毎日放送に電話をかけてほしいと言われ、嫌々言われた電話番号にかけたら間違いで、毎日放送さんじゃないですか、とお聞きすると「上田といいます」と優しそうな紳士のお声。申し訳ありませんと謝りつつ、もう違うやんか!と父に文句を言いながら電話を切ったあと、上田?と思って、そういえばお声似てたし、当時のご住所は大阪市近郊、毎日放送と市外局番まではかぶっててもおかしくありません。
おそらくは電話なども多くかかって来ていらしたところに申し訳なかったなと思いつつ、その時期でなければ監督がご自宅でお電話を取られることもなかったのだと思うと不思議な気がします。


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