家族構成

父と母、私が5歳の頃から母の両親祖父と祖母も一緒に同居していた。兄妹は上から、長女・長男・次男・次女・三女・私を入れて6人兄妹だった。

祖父は戦争を経験していて、とても頑固で、よく飼っていた猫を薪ストーブに使う火バサミで追いかけて叩いてた記憶がある。だから私は嫌いだった。8月になると、終戦記念日のドキュメンタリーを見ながら、眼鏡の奥が涙で濁っているのを毎年見ていた。口数は少なく、食べるご飯は決まって魚で、カレーライスやお肉は食べなかった。そしていつも寂しそうな目をしていた。

祖母はおしゃべりが大好きで、友達も多い方だった。近所に家族の悪口を言うのが習慣で、私たち兄妹は「いつもおばあちゃんをいじめてる孫。」として見られていたが、それほどご近所付き合いはなかったのが幸いで気にもならなかった。それでも共働きだった両親に変わって、“ただいま”といえば“おかえり”と言ってくれるのは祖母だった。熱が出た時、一生懸命背中をさすってくれて、着替えをさせてくれたのも祖母だった。

長女は他の5人の兄妹と父親が違った。姉が1歳の時に離婚をし、母が引き取り、2歳の時に今の父と再婚したらしい。バレエの先生をしていて、私は姉にバレエを教えてもらっていた。私と12歳離れていたせいか、兄妹と言うよりも怖い先生、他人のように感じた。いつも母は姉に気を使っていて、家のことはまったく手伝わせることなく、そのせいなのか片付けが苦手で、バレエをやっていながら体の自己管理が苦手だった。ダイエットが出来ず「水を飲むだけで太る体質なの。」が口癖だった。

長男は小さい頃から大事に育てられていたのか、とても神経質で、いつも何かを考えているようにみえた。高校生になるまでは、ふざけてジョークを言ったり、とても優しい性格だったが、高校生後半には習っていたバレエのトラブルで円形脱毛症になった。アトピーにもなった。肌がボロボロになって、身体中の毛が全て抜け落ちた。学校にはいけなくなり、途中で退学して、バレエの道に進んだ。そのままロシアへ3年留学して、2年バレエ団でソリストとして踊った。髪の毛は満足に生えることなく、バンダナをつけて踊っていた。よくそのメンタルで、踊っていたな、、と私は感心しかなかった。

次男は昔からハーフ顔で、3番目は女の子が欲しかった母にいつもスカートをはかされ、髪を伸ばし、女の子のように育てられていた。それでも幼稚園入る前には自我が芽生え女の子の洋服を拒否るようになったらしい。性格は温厚で、身長はそれほど高くなく、食べても全然太らず、いつも真白な肌だった。成績はいつもクラスでトップで、建築家を目指し、高校受験もすんなりと合格した。大学も推薦をもらい、建築家を目指せるような大学に行くはずだったが、“推薦はお金がかからない”と勘違いしていた父のおかげで、学校に通うお金の工面が出来ず、大学は諦めた。その時共働きしていた母は、長男のロシア留学の授業料・旅費・生活費を工面するのに精一杯だった。就職することに進路を変更したが、変更した時期が遅すぎて、就職先がなかった。幸い従姉妹のおじさんの建設会社で働くことがなんとか決まった。

次女は踊ることも、勉強も、友達関係も器用にこなす子供だった。中学生には彼氏が出来て、私が小学1年生だった頃、彼氏と2人乗りしながら制服をひらひらなびかせる姿が、わたしの憧れでしかなかった。中学卒業して美容師への道に進んだ。美容学校を卒業してすぐに、街の美容院に就職した。お給料に見合わないぐらい、深夜まで働き、手はボロボロで、顔の肌もボロボロだった。労働基準法はまったくない美容院だった。そこのトップスタイリストとともに辞めて独立した。しばらく楽しく働いてた時に出会ったお客さんと恋に落ちた。すぐに同棲し1年で妊娠した。そして相手は行方不明になった。

三女はすごく繊細でいつもお腹を痛くしていた。風邪を引くと、必ず高熱を出し、食べ物が食べられなくなり、いつも顔が青白かった。食べ物の好みが激しく、太らない食べ物が好きで、甘いものとマヨネーズが大っ嫌いだった。中学生の頃は、とにかく暗く、一定の人としか関わりを持たなかった。美術部に所属し、とにかく絵を描くことが大好きだった。中学卒業後、長男以降は「高校は公立のみいける。」と、学費がかかる私立は選択できなかった。公立が落ちた場合は、通信高校に通うのが決まりだった。姉は通信高校に入った。高校に通い始めた頃からがらりと性格が変わり、髪は金髪、着る服は赤とか黄色。その時はやっていた浜崎あゆみに夢中だった。部屋中あゆだらけだった。ある時、家にはあまり帰ってくることがなくなった。3日連続で家にいないことが当たり前だった。帰ってきても鼻から下半分だけ化粧を落として、昼過ぎまで寝て、起きたらまた顔から下半分にファンデーションを塗り直し、すぐに出かけた。ある時、万引きで捕まった。前々からマークされていて、捕まる日がきたのだ。私は見てないが、母がすごく泣いたらしい。そこから少しずつ姉は元に戻っていった。

母は絵が大好きで、親の反対を押し切って、美大に通った。母の姉が授業料を工面しながら、卒業もできたらしい。頭はとても良いが、自我が強すぎて、自分の考えを相手に押し付けるのが癖だった。ポジティブな考えよりもネガティブな考えの方が多かった。自分の夢を子供に叶えてもらうことを生きがいにしていた。結果、絵が大好きだった母のもう一つの夢“バレリーナになること”を叶えるために、兄妹みんな必ずバレエを習った。6人習った兄弟のうち、バレエの職業についたのは長女と長男だけだった。バレエの授業料2000万を金融会社から借りて通わせて、バレエ団引退後、先生になった長男とは、バレエ教室の経営の仕方で揉めて、今では音信不通になった。

父はとにかく働かない人だった。いつも鼻歌を歌って、組合を理由に家にいることが多かった。競馬のラジオを聴くのが好きだった。もうかったお金で好きな食べ物を買って、部屋でこっそり食べるのが好きだった。毎年冬になると「アラスカに単身赴任になるかもしれない。」が口癖だった。やがて家のローンも払えず、一緒に同居する義父義母の年金をあてにするようになった。そして祖父たちが亡くなった後は子供たちの稼ぎをあてにするようになった。決まって「みんなの収入合わせれば困ることない。」が口癖だった。

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