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髙島野十郎展 久留米市美術館

これで三回目となる。
二回目のときは、私がいちばん好きな「流」がなくてガッカリしたので、予め展示作品一覧を確認してから行くことにした。

どのみち時間はあったので、大分県からは車窓からの花見を楽しみつつ移動した。植えられた桜並木もいいのだけれど、田舎の山里の景観にぽつり、ぽつり、とある桜にこそ目が休まる心地だった。

九州に住んで良かったことの一つに、髙島野十郎という画家を知れたことと、彼の出身地である福岡県に多く作品があること、がある。三回目ともなれば、どれも見たことのある作品ばかりだけれど、生の野十郎の絵から受けるものは確かで、図録を眺めても得られない感覚を求めて私はまた、観に行った。

野十郎の初期作品には、ゴッホの影響が強く出ている。写実的な絵を描く人だと思われがちだけれど、細かく見ると木の枝などはたいてい実物よりも湾曲していて、ただ精密に描いただけではないことがわかる。

野十郎は、新緑の木々より冬枯れの裸の木々を好んで描いていたように思う。そしてその作品に、「生命の力強さを表現」云々と解説されていたけれど、私はそうは思えなかった。

今回の展覧会では、私は解説文に反発を感じることが多かった。私なりの野十郎像はそうではない、そんな陳腐なありきたりな解説文は、野十郎の本質を捉えていない、と生意気な感想を持ってしまった。

もしかしたら、初めてみた展覧会でも似たような解説だったかもしれないのに、今回は特に説教くささを感じてしまった。自分が偏屈になっただけだとも思う。

とはいえ、やはり生で観た「流」の渓谷の流れは変わらず私の心へ流れ込んできた。

まだ大丈夫。まだ流れている。
まだ感じることができる。
暗がりに潜むもの。隠されたもの。ずっと守られてきたもの。

▼今後の巡回予定

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