2.初めての挫折、逃げ道

5月。僕はまた走っていた。ただ漠然とした未来に希望を抱いて。

中学に入り早々、他の部活動に全く見学も行かず、野球部に入部届けを提出した。入部体験でやらせて貰える事は、学校の外周走。1周780mのコースを10周。それが終わる頃には日も暮れていて、先輩達の片付けをして帰宅。部活動体験に置いて、学校で一番つまらない内容だったと思う。最初は10人程度しか1年の顔は見えなかったが、入部体験期間の一ヶ月が終わる頃には20数名の1年生が野球部に入った。

6月。本格的に始まった部活動だが、1年生の毎日はひたすら外周走と、筋トレ。それが終わる頃には2、3年生の練習が終わり、入部体験と違ったのはその後に体のダウンでする、キャッチボールに混ぜて貰うくらいだった。と言うのも、3年の最後の大会が6月中旬に迫っていたため、監督も1年生にまで手を回せ無さそうなのが入部前から分かっていた。

今年の3年生は仙台市内でも良い成績で、学校内でも期待が高まっていた。部長でキャチャーの橋本先輩と、副部長でエースの曽我先輩がチームの柱となり、2人の声がけ1つで野球部の統率が見事に取れている感じがした。その雰囲気に乗せられて、この時は1年生にもサボる奴なんていなかった。

大会前日。ここまで厳しい練習を重ねてきた野球部だったが、監督が今日は体を慣らす程度にして、早めに帰宅し体を休めて欲しいと告げ、珍しく日が暮れる前に皆帰宅した。1年生の僕は、試合に出る機会も無かったので、道具を持って隣の小学校のグラウンドで一人壁当てをしに行った。壁に石で四角の枠を書き、頭の中で試合形式のピッチング練習をする。30分程投げ込みをした所で、グラウンドに誰かが入って来た。身長は僕より大きい奴が2人、後は同じ位の奴らが、こちらに向かって歩いてくる。野球道具を抱えて歩いて来るそいつらを背に、僕はまた投げ込みを始めた。グラウンドの使用権は、最初に使っていた者にあると、暗黙のルールがあるが、そいつらは構わずこちらに近づいて来る。

「力也混ぜてよ」僕は歩いて来た人達の一人に声をかけられた。振り返ると、野球部3年の先輩達だった。その中に、橋本部長と、曽我副部長もいた。小学生の時、遊びで何回か先輩達と野球をやった事はあったが、中学に入ってからは挨拶程度しかした事が無かったから、僕を認識して声をかけてくれた事に驚いた。「先輩達、明日に備えて体休めなくて良いんですか?」道具を降ろして、4人がバットを取り出している。「この大会が終わったら、俺らの中学野球は終わるからちょっとでも野球やりたいんだよね。」橋本先輩が優しく答えると、曽我先輩がすでにバッターボックスに向かい歩き出し「7、8割で投げてくれない?」と僕にバッティングピッチャーをお願いしてきた。てっきり僕は、練習するから場所を貸してと、除け者にされるかと思っていたので、ほっとした。

僕はマウンドに立って軽く投げてみた。曽我先輩はエースでありながらも、打順3番の強打者で、4番に座る橋本部長よりも成績の良いバッターだった。「カキーン」金属バットの音が軽快にグラウンドに響き渡る。ボールはレフトに貼られるネットに一瞬で飛んでいった。ホームランだ。僕はいくら自分が軽く投げたといえ、1球で捕らえる観察眼と打球のスピードに驚きを隠せなかった。「すげー」と思わず口に出た。球を拾いに行き、次はこの辺に投げて、次はここと、先輩達に指示されるがまま、内角外角に分けて投げ込み、打たれた球を走って取りに行った。夕方も終わる時間まで、汗を流し橋本部長が「腹へったからそろそろ帰ろう」と言い、大会前日の5人だけの練習は終わった。「力也ありがとう」と皆に言われて、「明日から頑張ってください」と伝えた。この先輩達は強いだろうなと思った。そして、橋本部長と曽我先輩の関係性がなんか良いなと思った。

3年の先輩達の最後の大会は、あまりにも早く幕を閉じた。地区大会の2回戦に負け、これまでで一番悪い成績だった。監督も先輩達も予想してなかった結果だったと思う。試合終了後のミーティングでは、橋本先輩も曽我先輩も皆泣いていた。本当に悔しくて泣いているのが分かったし、僕も殆ど一緒に野球をした事が無かったけど悔しかった。そして、ここから僕の地獄の部活動が始まった。

7月から2年生主体のチームになり、1年も本格的な練習が行えるようになった。しかし、監督は体力作りをまずやり込めとの指導で、とにかく夏場は走り込みメインの練習が主だった。新チームになり、勢い巻いていた雰囲気もあり最初の10日間位は、皆愚痴もこぼさず走っていたが、それを過ぎた頃、この新チームの実態が明らかになった。新たに部長に任命された正木先輩は、実力こそあったが同級生からあまり人望の無い先輩で、練習内容を自ら考え、チームに声がけをしても、チームからはやる気の無い返事と愚痴ばかりが返っていた。逆に人望が熱く見えたのは、副部長になった伊藤先輩の方だった。しかし、僕の目に見えて来るものは、率先して練習をサボる姿と、同級生に対する行き過ぎたイジリだった。見る人が見ればイジメにも見えたと思う。この二人の関係性も、伊藤先輩の方が発言の権力を持っていて、見るに耐えないチームのリーダー二人を先頭に、僕達1年生は着いていくしか無かった。

夏休みに入ると、練習を真剣にやる人たちはかなり少なくなった。正木先輩について行く1年生は僕を含めて3人程度だった。朝学校に集合して、最初にやる外周10周走も、早く終わった人からキャチボールをやれるのだが、僕と正木先輩ら5人が、だらだら走る他の部員に5周も差をつけて走り終えグラウンドに入ると、まだ半分も終わってない大半の部員がその後数分で、グラウンドに入ってくる。明らかに走り終えて無いのが分かるが、正木先輩が何を言っても、誰一人聞く耳を持たなかった。2年の先輩達のサボる姿を見て、大半の1年生はそれを真似していった。僕は新チームになってから、野球に対しての皆と自分の熱量の違いを感じ、皆に対して冷めた態度を取るようになった。それでも、秋の新人戦にベンチ入りすることだけを目標に、自分のやるべき事だけをやることにした。

夏休み中に行われた、紅白戦では1年生が4人試合に参加できた。その中に僕も入る事ができ、ショートで5番をやらせてもらった。試合では守備でこそ良い結果は残せ無かったが、3打数3安打、内1本はランニングホームランを放った。それでも僕は、監督がいる時だけ沸いて見せるこのチームがあまりにも気持ち悪く、嬉しいのか、悲しいのか良く分からないままでいた。チーム内の会話も、誰かの陰口と、誰かを蔑む声で溢れかえっていた。

夏休みが終わると、学校生活では野球部の連中と関わる事は一切なかった。この頃にはすでに、自分のクラスから派生した他クラスも含める大きなグループが出来、僕はグループの中心にいた。当然その中に、他の野球部の奴はいなかった。ここでは、自分の意見や発言に賛同してくれる仲間が沢山居たが、野球部に置いての僕の意見は、今の新チームに置いてのアンチテーゼにしかならなかった。僕は何処か、野球に対する熱が自分の中から日に日に冷めていくのが、無意識ながらも分かっていた。

秋、新チームで初めての公式試合、新人戦が始まった。1年生からベンチ入りしたのは4人。その中に僕も入っていた。僕はショートの控えで、1塁コーチャーをやった。部員数が50人の中から、選ばれたのは少しだけ嬉しかったが、燃え上がるような気持ちは僕の中から無くなっていた。このか弱いチームの結果は試合をしなくても分かりきっていて、案の定地区大会の2回戦負けで、僕はこのチームにいる事が恥ずかしくなった。あんなに大好きで、毎日のように練習していた野球も、いつの間にか続けることの方が苦痛で、何より部内で孤立している時間は学校生活において耐え難いものだった。僕は逃げるように、必死で他に打ち込める事を探していた。

新人戦が終わり、9月に文化祭が行われた。基本的には3年生の全クラスに及ぶ出し物と、文化部の演奏や個展を体育館のステージで見るだけなのだが、その中に有志のダンスステージやバンド演奏などもあった。僕は椅子に座って、だらだらと時間が経つのを待っていたが、少しだけバンド演奏の時間を楽しみにしていた。

「続いての演奏は、2年生バスケ部のバンド演奏です。夏休みの空いた時間を使って練習しました。バンド名はFive men。是非聞いて下さい。」文化祭実行委員のアナウンスがかかり、有志のバンド演奏が始まった。ステージの幕開けと同時に、ドラムの音が鳴り出す。ドンドン、タン!ドンドン、タン![Buddy,you're a boy,make a big noise. Playing in the street, gonna be a big man someday. 」誰もが知っている、QueenのWe Will Rock You が始まった。僕も海外の母が、家で洋楽を常に流していた為知っている曲だった。歌と同時に観客の温度も上がって行くのが分かった。次に爆音でエレキギターが鳴り出す。会場のあちこちで歓声が聞こえてくる。中学生が弾くには大分難しいギターのフレーズが飛んでくる。自分のグループにいたバスケ部のリョータが、あのギターボーカルのお父さんプロのギタリストなんだって。と興奮気味に聞いている僕に話しかける。僕はたったの5人組の演奏が、体育館にいる600人の人を沸かせている事実に、驚きを隠せずにいた。そして、小学生の時から台風の目玉であると思い込んで来た自分の存在が、今は何者にもなれずただこうして周りと演奏を聞いているという事実があまりにも悔しく、僕はその後の演奏を見ることがとても苦しかった。そして僕は、これなら僕にも出来ると思い。来年の文化祭ではあそこに立つことを自分自身に誓った。

冬になると、僕は成長痛に悩んでいた。膝のオスグットという成長痛が酷く野球部の練習について行く事がかなり過酷になっていた。父に相談しても、温めて治しなさいとあまり聞いて貰えず、病院で見てもらう事はできなかった。監督に相談しても病院で診てもらいなさいと、父と監督の間に挟まれ、痛みを抱えながら練習に参加するしかなかった。ある日、家で食事を終えて皿洗いをしていると、僕の膝は全く曲がらなくなっていた。痛いというよりも、関節が言うことを聞かない感じで、母がすぐに病院に行きなさと言ってくれて、初めて病院に連れてってもらった。酷く炎症を起こしていて、膝の中に血が溜まっていると告げられ、3ヶ月は安静にして下さいと病院の先生に言われた。それから僕は、学校終わりに週2、3回の病院通いをすることになって、野球部の練習を休んだ。野球部の連中には、サボっているように見えたと思うが、何故休むのかすら説明する時間も惜しいくらいに、僕は連中と会話をしたくなかった。

11月から1月までの休暇をもらった僕は、12月のクリスマスイブに親父に中古で5千円のエレキギターを買ってもらった。文化祭で受けた衝撃は数ヶ月経っても変わらず、僕は来年の文化祭でステージに立つ事を目標にギターの練習を始めた。小さい時から、ピアノを習っていた事もあり僕はギターをすぐ弾けるようになった。3日で1曲、弾き語りも出来る様になり、うっすらと運動よりも音楽の方が自分に合っているように思えた。それでも運動でも目立ちたいと言う単純な考えもあったから、とりあえず自分の中の隠し芸の一つだと思い、運動が出来ない期間ひたすらギターと遊んだ。

それから、野球部の練習に合流出来る様になっても3ヶ月でチームは何も変わっていなかった。僕は練習終わりの自主練もこの頃にはしなくなって、帰ってからギターばかり弾くようになった。

学年が上がり2年の6月、僕は部活を辞めることを決心した。3年生の最後の大会、2年生からベンチ入りしたのは2人。その中に僕は選ばれなかった。最後の大会は地区予選の1回戦負けだった。僕は、そんなチームのベンチにも入れて無いのに、選ばれた人達が1回戦で負けるこの現実を見て、プロ野球選手に慣れる訳が無いと悟った。野球は大好きだったけど、自分の才能を将来に生かすには野球では誰かに負けてしまうと思った。3年の先輩達が涙を流し、チームメイトが感傷に浸るその場で、僕は一切の涙を流さず次に進むべき道の事を考えていた。

僕はより一層ギターの練習に打ち込み、バンド活動をする仲間を集めた。そう、僕が音楽の道に両足を突っ込んだのは、中学2年の時からだった。部活を辞めるからには、最後くらい真面目に部活をやろうと思い、僕は久々に野球もちゃんとやった。少しずつ同級生の部員にも辞める事を伝えた。すると皆、最後くらい僕の言うことを聞くようになってくれたけど、これも新しく入る1年生に見せる威勢の良さなのかなとも思った。最後の1ヶ月間は膝も治った事もあり、自分でも想像以上に動けて、部活も楽しくやれた。夏休みに入る前、僕ともう一人の部員が監督に呼ばれて、どちらかに部長か副部長になってチームを引っ張ってほしいと告げられたが、僕はその場で野球部を辞める事を告げた。

僕にとっての初めての大きな挫折は、14歳。救われるように、または逃げる様に方向を変えた音楽という道は、僕に初めての青春をこの後にもたらしてくれた。

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