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どうしろというのか その終着駅

「間もなく終点……終点……」
 夢うつつの中、聞こえたその声に文彦は跳ね起きた。聞き間違いかと思い、ジッとしてしばらく待っていると再度その声が聞こえてきた。
「終点になります……終点です……」
 くぐもった声だ。低いので男だろうと思うが、抑揚は無い。
「運転士もいない電車に車掌さんだけ居るはずもない。きっと録音なんだろうけど、それにしても――」
 なぜいままで放送が無かったのか、文彦は首を捻った。
「見逃してたなら分からないけど、見てた範囲で駅と言えば停まった三駅だけだ。そのどの駅でも車内放送なんて無かった。第一、東京駅始発でたった三駅だけで次が終点?随分ふざけた話だな」
 荷物の整理を始めた。ずっと手元にあったがスマホも用が無い。バッグの中に押し込んだ。
「あての無い旅はいいんだけど、なんでこうも奇妙なことばっかり……」
 窓の外はすっかり暗い。泊まる宿をどうするか、そこにも不安はある。
「なにせ最初の二駅なんて奇妙にもほどがあったし、終点の街は普通だろうなんて期待出来ないかも知れないしな」
 すっかり不思議に慣れた文彦は、そう言ってドアの前に立った。
 滑り込んでいくホームには大勢の人影がある。それだけでも文彦には安心が感じられた。
 電車が停車してドアが開き、降り立つとすぐにドアを閉ざした。あっという間に電車は出て行った。それを見送った文彦はホームを見回した。拍子抜けする思いだった。
「普通だ……」
 ホームに吊り下げられた時計は九時二十分を指している。帰宅途上の会社員風や楽しげに会話する学生の姿が多く見受けられる。その雰囲気は普段文彦が都内で経験しているものと何処も変わらない。
「結局街なんてある程度大きいとどこもこんな――」
 途中で言葉を飲み込んだ。
「いや……ちょっと待てよ、この駅は――」
 見覚えがある、などというレベルでは無い。
「ここは……東京駅じゃないか!」
 信じられなかった。確かにそこは東京駅だ。
「いやいやいや!おかしすぎるだろ!なんで東京駅を出た電車の着いた先が東京駅なんだ?」
 電車は折り返すという事がある。だがそれにしても文彦が把握する限り電車は回頭などしてはいないし、後ろ向きにも進んではいなかった。
「ぐるりと回ったとか?」
 あり得ないと思った。鉄道に詳しいわけでもない文彦だが、マニアの友人から聞かされたことがある。
「山岳なんかじゃあ、あるにはあるよ。くるりとループして山を巻いて登るんだ」
 だがそれは特殊なケースであり、しかもループして元に戻るわけでもない。もしもあったとして、東京駅始発でそんなものが存在するなど聞いたこともない。文彦は手にしていたバッグをドサリと落とした。
「東京からあてのない旅に出たんじゃなかったのかよ」
「あれ?係長補?高村さんじゃないですか?」
 声に驚き振り向くと、そこに立っていたのは辞表を出すまで直属の部下だった三鷹彩花だった。
「三鷹?なんでここに?」
 彩花は呆れた顔で言った。
「だって私、与野ですから毎日使ってますけど。でもま、今夜は友だちの送別会だったんでたまたまこのホームに……それより高村さんですよ!あの後大変だったんですから!」
 部下とは言っても全員で十八名の小チームだ。文彦は役職名で呼ぶなと部下に言いつけていたので、彩花も文彦を名字で呼ぶ。
「大変って?」
「んー……なんて言うかな」
 少し思案し、彩花は文彦をチラリと見ていった。
「お時間ありますか?もしあったら、一杯行きません?」
 グラスを煽る仕草だ。
「昭和か」
 呆れたが、こうなってはもう急ぐこともないと思い、文彦は頷いた。
「まあいいか。あての無いアレは明日からで」
 そう言ってバッグを拾い上げた。
「あての無い、なんですか?」
 二人は並んで階段を下りていった。

「え?課長がそんなことを?」
 賑やかな居酒屋で思わず手のグラスを落としそうになった。彩花はビールを呷って頷いた。鼻の下の泡がヒゲのようだ。
「そうなんですよ。なんでアイツは分かってくれないかな――って、ガックリしちゃって」
 項垂れる真似を見せた。
「あのあと課長の方で上に掛け合ってくれて、辞令は辞令としてナシには出来ないけど短い期間で開発の方に戻れるようにするのにって。営業現場の技術教育係として短い期間頑張って貰いたかったそうですよ」
 課長の渋い顔が蘇る。愛想は無いが、人情味のある人物だとは思っていた。
「そうなのか……」
「それだけじゃ無くて、開発一係の方ももう大変で。なにせ課長が動いたのだってチーム高村だけじゃ無くって他の全員で嘆願したからなんですよ。昼ご飯に行く前の課長捕まえてギャアギャアと。課長も頭抱えて唸っちゃって、それで〈わかった、昼を終えたら上に話しに行くから〉ってなった次第です」
 グラスを煽ると空になった。
「あ、生もう一つ!」
 店員に言って彩花は後ろ手をついた。
「戻って下さいよぉ。高村さんが居ないとチームが締まらないです!なんか気が抜けてて」
 文彦はすでに気の抜けたグラスのビールを見つめた。彩花は枝豆を口に放り込む。
「それにね、問題は後任なんですよ」
「戸田に決まってただろ?」
 戸田和夫は文彦の同期で、山梨工場で技術担当をしている。
「戸田さんまでなんだか上に〈ごねた〉らしいんですよね。伝え聞くところによれば〈子供が転校をイヤがってるんだ。いまは円満な俺の家庭内が荒れたら会社のせいですよ〉とかなんとか」
「そんなことを?」
 彩花は僅かに充血した目で文彦を見つめた。
「みんなで高村さんに戻って欲しいんです」
 文彦は考えていた。
――技術畑一筋の人間をいきなり営業へ移籍だなんて腹も立ったが、それは俺の見栄だったのかも知れない。仕事ぶりが評価されないから移籍させるんだろうとか考えて悔しくて、それで、それならこっちから辞めてやる!なんて……。
 不意に高層張りぼてビルディングの男を思い出した。
――認められたいが、評価というのは常に他人がすることだ。他人の評価が怖くてその他人が近づけないような街に住み、寄せ付けないくせに住まいを見られた場合に供えた見栄を張る。自分に苛立つばかりで他人の気持ちに思い至る余裕が無い。だが俺の周囲の〈他人たち〉は、こんなに俺を評価してくれている……。
 長い溜息が文彦から零れた。
「課長、こうも言ってましたよ。誰かアイツを見かけたら戻るように言えって。辞表は当座、俺のとこで抑えておくからって」
 泣きそうになり、文彦は顔を両手でしごいた。彩花はそれを見て視線を逸らした。
「ところでさっき高村さんが言ってた〈あての無いアレ〉ってなんですか?会社辞めて何か楽しいプランでも?やだなぁ、私も戻って貰いたいですよ。高村さんが居ないと私なんてなんにも出来ないし、それに――」
 言いかけてやめた彩花を文彦は見た。絡み合った視線を双方が逸らした。あとはどちらも無言だった。文彦は彩花の仕事ぶりを思い返した。
――最初の街にいた彼女は仕事に追われたと言うが、三鷹だって連日九時まで残業がデフォだ。繁忙期には休日出勤も頼んだりするが、イヤな顔一つしない。まだ若いのだし、友人との予定だって遊びだってあるだろう。勿論プライベートより仕事だなんて考えは俺にも会社にも無い。だが、ここ一番で誰もが犠牲を強いられるものだ。猛烈会社員だの、ブラック企業だのって言葉があるが、欲しいものだけで世界は出来てないし、要らないモノを拾って縁の下の力持ちをする事は往々にしてある。
「確かに、子供時代のままいられたらどんなに楽しいか」
「え?子供?なんですかその話」
 三杯目の生を流し込んで彩花は訊ねてきた。
「なんでもない。無くすのと卒業するのはワケが違うって話さ」
「ふうん?」
 彩花は首を傾げたが、その目はトロンと呆けていた。
「帰るぞ」
「えー?帰るんですかぁ?もう一軒行きましょうよ!もっとこう、雰囲気のあるっていうか……」
 文彦は笑って彩花の手を引き、立たせた。
「それはまた今度な」
「今度?今度って、いつですかぁ?」
 足がもつれている。送り届けるしか無いと思い、文彦は苦笑した。
「今度は今度だ」
 会計を終えて店の外に出た。夜の新橋に初夏の風が吹いている。
「今度ってのはぁ、いつれすかぁ?」
 しゃっくりをして彩花が訊ねる。文彦は走り去る電車を見た。
「あての無い旅――か」
 彩花は寝息を立て始めた。
「ひとりぼっちの奇妙な街も良い。自分の選ぶことだ。だが俺は――」
 不安がっていた部下を切っておいていこうとした自分が情けなかった。三人目の彼女を思い出した。帰る場所があるのに恐れすぎていた彼女だ。自分にもあったのだと思い、なぜもっと豊かな考えが持てなかったのだろう――と文彦は唇を噛んだ。文彦は眠っている彩花に囁いた。
 「今日はもう金曜だ。休みが明けた来週――仕事の帰りにみんなで行こう」
 呼んだタクシーが来るまでの間、文彦は酔い潰れた彩花に肩を貸して夜空を見上げていた。
たぶん――と、文彦は思う。
――たぶん俺はもうあの電車に乗ることも無いんだろうな。

「ううん……高村さん……もう一軒……ひっく……」
「俺にどうしろって言うんだよ……」
 文彦は笑い、やって来たタクシーに彩花を押し込んで行き先を告げた。それは一人きりになる寂しい街では断じてない――そう思った。

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