見出し画像

「神のシャロ-ムプロジェクト」①

 今秋から神学校のオンライン講義が始まりましたので、授業の内容をまとめていきます。
 講義名は「神のシャロームプロジェクト」です。


「物語について」

 この講義の目的は、聖書の物語を、通して信仰生活に何らかの益になることです。本書を通して聖書という一つの物語をみていきます。
 次に、有名な神学者、学者の物語についての記述を紹介します。
 クリストファー・ライトは聖書をひとつの偉大な物語としてとらえることを勧めている(クリストファー・ライト 「神の宣教」pp.54-56)。聖書の物語は世界の他の宗教や哲学にとっても基本的な次の四つの世界 観の課題に答えている。 私たちはどこにいるのか。(私たちを取り巻く世界の性質は何か) 私たちは誰なのか。(人間の本質的な性質は何か) 何が間違っているのか。(なぜ世界はこのように混乱しているのか) 何が救いか。(このために私たちは何ができるのか) 。マ イケル・ロダールは、物語には、始まりがあり、主要な登場人物がおり、筋(プロ ット)がある。各章ごとに、波乱と進展、どんでん返しがあり、そして全体に意味を与えることになる結末が ある。また、誰か他の人の物語を聞くことは、私たち自身の物語にたびたび、光を投げかける。私たちはし ばしば他の人の物語の中の登場人物であり、他の人々もまた私たちの物語の中の登場人物である(マ イケル・ロダール「神の物語」p.12)。河合隼雄は、 物語の特性は「関係づける」働きにあると言える。物語はそれを共有する人たちの間で「われわれの物 語」になる。物語によって、人々は過去との結びつきや、その土地との結びつき、人間相互の結びつきを 強めることができた。それはある部族や家族などのアイデンティティのために役立った(河合隼雄「物語を 生きる」)。 
 また、NT ライトは聖書を 5 幕の劇にたとえている。 第 1 幕:「創造」 第 2 幕:「堕落」 第 3 幕:「イスラエル」 第 4 幕:「イエス・キリスト」 第 5 幕:「教会」(「初代教会」、「終末」)
 「初代教会」までは完成しているが、「終末」だけは、筋書きはあるが未だ完成していない。この劇の出演者は、我々人間であり、私たちは、聖書というシナリオを見て、神の意志に合うするように、アドリブで演じる必要がある。

「シャロームについて」

 この聖書物語のタイトルをつける際に、神の意志を考えると、「シャロームプロジェクト」が妥当である。
 そこで、シャロームのことばの意味について考えてみる。シャロームはヘブライ語で、イスラエルの挨拶として使われている。シャロームは単に「平和」ということよりも広い意味がある。 メノナイト派の著名な旧約学者であるペリー・ヨーダーは著書「シャローム・ジャスティス」の中でこの用語 について詳しい説明をしている。旧約聖書においてシャロームには三つの領域で理解される。
① 物質的・身体的状態 ② 関係性・正義 ③ 道徳的・倫理的領域
 シャロームは物事がいかにあるべきかを定義する。物事が本来あるべき状態にあることが、シャロームな のである。それは神の究極的な意志である(イザヤ 2:2-4)。 新約聖書においてシャロームはエイレーネーに置き換わる。ただ、ヘブライ語の挨拶のように日常的に用いるのでなく、神学的な意味で用いられる。例えば、「平 和の神」(ローマ 15:33、16:20、Ⅱコリ 13:11、Ⅰテサ 5:23、Ⅱテサ 3:16、へブル 13:20)、「神 の平和」「キリストの平和」(ヨハネ 14:27、ピリピ 4:7、コロサイ 3:15)「平和の福音」(エペソ 6:15、 2:17、使徒 10:36)等。 イエスの死と復活によってエイレーネーはもたらされた。第一に神と人々との間に平和をもたらすこと(ロ ーマ 5:1-11)第二に人々の間の関係を変革すること(エペソ 2:14-17、コロサイ 1:20)。新約聖 書において、エイレーネー(平和)がイエス・キリストにおける神の目的にとって中心的である。物事が本 来あるはずの状態になるためにイエスは来られた。 
 最後に、著者が今回の講義の該当箇所で書いていた神学的問題について紹介する。一つは、多くの、クリスチャンがキリストと個人的関係にしか興味を持たないことに懐疑的である。自分が救われることだけでなく、共同体(教会)と神との関係、神が人間とどのような関係を持とうとするか、目的と意思を理解するべきである。
 2つ目は、霊肉二元論的キリスト教の問題である。これは後々登場するので、ここでは触れない。
 若干講義の内容と違いますが、この本を解説している動画がありましたので
upしてます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?