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「宣教とは?」①

 今回から、全6回で、宣教について考えるオンライン講義が行われましたので、まとめてみました。今回は、ノーマン・クラウス【著】の「働きかけるイエスの福音」をテキストとして使います。



   「ギリシャ的二元論を超えて」

「序論」

 「干渉」(intervention)この言葉はこれから宣教を考える上でテーマとなるキーワードです。この著者は、「提示」「対話」も鑑賞の一種と考えます。1970年代から80年代にかけて「第三世界」の経済発展の現実が暴露され、キリスト教宣教において、「支配」と呼んだ事柄が内在していたということが認識され、文化的介入の有効性や価値に関して疑義が申し立てられた。宣教活動を推進していた団体は、優先順位と戦略を見直すようになった。

「支配を超えて」

 「霊的」侵略は文化的干渉として認識されてこなかった。また、そのような侵略を教会は行い、自己正当化してきたのである。
 宗教的活動としての宣教
① 非宗教的目標や国家侵略の手先である軍事力と手を結び、彼らに依存してきた。
② 宣教のビジョンは、キリスト教宣教が「無敵の軍隊」のように前進することであり、非宗教的団体にみられる植民地政策に似たスタイルであった。
④ 福音化することと、改宗へと導くことの違いが、ますます認識されるようになっていった。
⑤ 今や宣教の基本概念は「宣言」「土着化」「文化脈化」「対話」「適切な技術」などがキャッチ・フレーズとなった。
 全人的宣教(holistic mission) ① 現場で働く諸団体も送り出す側も、宣教現場での西洋型支配の問題に取り組み、全人的宣教を目指した戦略を探し求めている。 ② 伝道の実際的な働きが、人間の「霊的」側面のみに限定されることはなくなった。 ③ しかし、その働きは伝道や教会形成という基本概念の下にあり、宣教における社会的奉仕の貢献が「霊的」なものであるという理解は遅々として進んでいない。
メノナイト派のような、宣教部門と支援部門を組織化した福音派でも、霊的領域と身体的―社会領域を対立的にとらえる二元論に従って組織化されている。
 つまり、宣教部門は、伝道あるいは教会形成を支え、支援部門は、救助活動や社会的奉仕を行うが、教会形成への期待はない。
 この分裂は、奉仕に携わる人の一部に影響し、現地教会の働きは受け入れるが、地域の伝道から身を引いてしまった。その一方で、宣教部門は、教会形成に最低限の働き手しか送らなかった。
 こうした二元論的分裂をなくすには、二つのことを一つのように考えなければならない。

「ギリシャ的二元論を超えて」

 (1) 「神のかたち」 ① 聖書的な全人的人間理解の再発見 ② 人間の本質は、社会的次元と霊的次元とを含んで定義される。 ③ 霊と身体とを分けて考える伝統的なギリシア的二元論は、西洋神学を形作るばかりでなく、ときにはその神学を捻じ曲げてきた。 (2) 「人道主義的」な奉仕と「霊的」救済とを分離し、各々を個別な活動とする理解を超える必要がある。3) 2世紀にグノーシス的異端がすでに存在し、彼らは新プラトン主義の影響を受けて、肉体―精神と霊を分けて語った。(4) 精神(あるいは理性)は肉体に関連付けられるのであり、死すべき存在である。霊だけが永遠であり、究極的な救済に与かることができる。霊の救済は、究極の原理としての神的霊知(グノーシス)を通じてもたらされる。人間理解おけるこのような決定的な二元論は、歴史を通じてキリスト教会に悪影響を及ぼし続けてきた。現代でも、ファンダメンタルなキリスト教会では最も尊ばれる考え方である。それは、社会的奉仕を「沈みゆく船の中で、楽器を磨くようなものだ」(D.L.ムーディー)に象徴される。  (7)救済は、個々人の霊が生まれ変わることで神の霊とつながることである。他者とのつながりを表す社会的次元は二義的なものとなった。(8)つまり、 キリスト教の宣教は魂(あるいは霊)の救済という個人的救済を優先し、救済活動と「社会的奉仕」を二次的なものとなった。

「この講義で何を学んだか」

 この講義の中で繰り返し言っていたのは、過去の特に福音派の宣教は、教会形成や宣教地の人々を改心させることの重点を置いていたので、そこの伝統や文化を無視していたのではないだろうか?今までの、魂の救済が一番大事で、社会的奉仕は二番目以降にされていた宣教のやり方は正しかったのだろうか?と、主張してました。
 例えば、日本においても、教会において、初詣、仏式の葬式に参加すること、仏壇に向かってお祈りすること、祭りに参加することなどを、禁止していた教会は多くありました。講師の方も、長年、元旦に実家に帰るとや、親戚の葬式に参加することを避けていたと言ってました。本当にそのような行動をしてよかったのだろうかと後悔したそうです。だからと言って、何でも世間のやり方に、合わせるのではなく、クリスチャンとして自分の信仰的にできないことは断ることは大事であると言ってました。他の人のやり方が自分と違っていてもそれで非難するのはやめるべきだと言ってました。授業後に少しの時間、会社や親戚関係で発生する葬式などの他の宗教的行事に対して、どういうやり方をとっているか意見交換しました。
 これから様々な宣教の課題について考えていくと思います。

   今回の内容の、動画がありましたのでupしてます。
より詳しく解説してます。
 


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