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宣教学 ②

 現代の、パラダイムシフト(伝統的な文化への古典的な伝道及び宣教アプローチの変化)により、新たな視点が導入され、私たちの解釈や聖書の読み方に変化をもたらしている。
 かつての理性や、科学を確信していた西洋文化優位の価値観に疑問を持つポストモダンの時代になる中で、教会の宣教の概念や実践に影響し、変化を求められるようになった。以下、キリスト教神学からその影響を検討する。


パラダイムシフトの影響

 ここでは、近代からポストモダンへの変化の特徴について考えてみる。
近代は、科学世界観と方法論が支配した時代であり、主観的でないことがよいとされ、真理は、客観的な実証に基づいた合理的結論とされた。実証に基づかない主張は「意見」であり、非論理的な主張は、「迷信」と呼ばれた。
 このような定義に従い、ファンダメンタルなプロテスタントキリスト者は、聖書の超自然的な啓示を客観的で合理的な事実のデータと考えてきた。
 このような視点から、「全科学的」な非聖書的な文化に対して否定的な評価を下された。ここでの介入の目的は、近代化であり、発展であり、科学に基づく教育であり、伝道であり、客観的な真理への回心である。
近代化の目的は、個人の自立であり、個人を運命や因襲的な共同主義からの解放であり、非理性的な迷信にとらわれている人に介入の権利を行使することも正当化している。
 近代の開発過程において、合理的な介在は避けられず、理性と技術においても、近代主義の優位は明らかであるとみなされた。社会において、進化論的発達は不可避であったという考えを拒否してきた敬虔深い宣教師たちも、進化論的な思考を取り入れてしまった。
 以下、文化的介入に関する私たちの方法論に影響を与えてきた基本的特徴を考えてみる。
 ① 「知ること」は参与的営みであると理解されるようになった。
あらゆる知には、ある程度の主観性が含まれており、科学者の実験データさえも変えてしまう。真理を定義する方法が私たちの文化的社会環境によって部分的に決定する。それゆえ、私たちの持っている知識は不完全である。
知識の探求は真理を得たものの共同体と相対的関係にあり、対話によって深められる。
 しかし、このような知識理解は、神の絶対的で客観的な神のデータである啓示に当てはまるのだろうか?実際、受肉の教理は、このような真理理解とそぐわない。しかしながら、その真理への私たちの理解自体は相対的な関係によってなされ、他者との対話的な関係を通して、神を知るようになる。
 ② ポストモダンの考えは必然的な発展という理念に対して挑戦し、変化する現実をより実際的かつ理性的にとらえる視点を提供する。
 ポストモダンの考えは、近代主義が伝統的な文化に取って代わる見方に懐疑的である。

文化的なダイナミズムに対する新しい理解

① すべての文化は動的であり、常に変化していることを学んできた。
 伝統文化も変化を重ね、新しい状況に対応してきた。
原始的であることが、必ずしも遅れや、未発達でなく、近代化が人間の発達をもたらすわけでないことも学んできた。
 私たちの使命は創造的に働き、宣教地の文化を尊敬し、その文化に変化をもたらすことで、神の下における真の人間共同体を形成することである。
② キリスト教文化を含めてすべての文化は、神の支配という聖書の理念に相対的であると学んできた。
 キリスト教文化は、神の支配と同一視できるものでないが、すべての文化にとっての基準のように考えられ、宣教においても、非西洋文化を変革しなければならないという前提に行動してきた。
 しかし逆説的にこの考えをとらえると、歴史的に聖書とは関係ない文化において、西洋文化に優る人間観や宗教観が存在するかもしれない。
③ 保守的であろうとリベラルであろうと、聖書的伝統、聖書的メッセージを西洋キリスト教文化と同定してはならない。
 教会の伝統と聖書の主張を明確に区別する考えは昔から理解されていたが、歴史的変化に対応するのが難しかったため、宗教的保守は聖書のメッセージを自らの教えと同等にみなし、統一された普遍的な解釈を強要しようとしてきた。
④ 聖書のメッセージの文化脈化の重要性と必然性について考えなければならない。
 文化脈化は、福音を表現するのに用いる言葉や行為を各文化の文脈に適合させることである。
 何世紀にもわたり、福音のメッセージを文字を読める人にはギリシャ哲学の思想に合わせて、文字を読めない人には、絵画を通して表現しきた。
 しかし、現在においては、コミュニケーション過程をじっくりと分析して文化脈化行うべきである。
⑤ 関係性・コミュニケーション・心理、これらの三つの結び付きがいかに重要かが理解されてるようになった。
 神とのあるべき関係、他者とのあるべき関係が、自分たちよりも他者を重んじるというイエスの真理でありコミュニケーションには不可欠である。

コミュニケーション過程について

ユージン・ナンダは福音の異文化伝達のパラダイムシフトについて、「二つの言語モデル」から「三つの言語モデル」へのシフトと呼んでいる。
 「二つの言語モデル」は、聖書のメッセージは近代西洋の福音的文脈と同一視される。そこでの使命は、正当な教えを単純に伝えるだけである。
私たちの福音宣教と奉仕の働きを支配してきた。
 「三つの言語モデル」は、聖書のメッセージは現代の文化に福音を伝えるが、現代文と福音とを同一視することができない。宣教対象の文化は、生協主体の文化より聖書時代の文化に近い可能性があり、宣教師は、新しい宣教の視点に傾聴するべきで、聖書の意味を他の文化の視点から探るべきである。聖書のメッセージそのものと宣教対象の文化との直接的な相互関係の確立が不可欠である。
 奉仕に携わる人々の場合、現地のことばでともに聖書が読まれ、その共同体の視点で適用がなされる。
 このように、宣教地の文化に対して適切な態度を示せるようになり、経験するべき変化へと彼らを巻き込めるようになる。聖書に示されたキリストは基準であり続けるが、私たちの文化は相対的であり、他の文化において福音が受け入れられる可能性があることを認識しなければならない。

ポストモダンにおける神学的視点

 ポストモダン的宗教観は、多元性と相対性、人間がかかわる問題に対しては対話的方策による解決を主張する。ポストモダンへの変化の中で、他の文化に対する優越意識に支配されていた西洋文化は再評価され、過度な理性主義は是正され、全人的宣教へとつながる聖書メッセージを洞察す可能性を広げてくれるだろう。
 ポストモダン的視点は、真理を、福音的教義を教えることでなく、福音的な生き方を証しすることであると考える。
 相対的多元主義は、接触してきた多文化や他宗教、世界中の教会の正統的教理に対する姿勢を再評価する契機を与えてくれる。
 以上から、私たちは福音と近代化を区別しなければならない。この200年間で、近代化と西洋キリスト教の文化と分離され、福音が「弱さ」として、社会向上の約束を伴わずに伝えられている。
 ここで、「弱さ」とは、非暴力と、献身的奉仕である。
献身的奉仕は、経済的ー軍事的な権力構造に代わる全人的な救済である。
 福音は、精神の貧困からの解放、貪欲からの解放、他社との関係が薄れる恐怖からの解放をもたらし、献身者に大切な意味付けを与え、心の豊かな人生をもたらす。
 最後に、宣教は、世俗的でなく、真の人間の発展を宗教的に根拠付けできる、変革をもたらす霊的で有効な方策を提示することを切望している。

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