長崎のこと、戦争のこと

イスラエルはガザでの虐殺をやめてください。
#CeasefireNOW
#StopGazaGenocide
#freepalestine


 きっと口から出る言葉にはならないから書いてみる。戦争のことって話しにくい。あまり話したいと思うときもないし。今この瞬間生成される最古の記憶を残したい。行くたびに何か変わっている祖母の家、同じものはきっと現れない夢のこと。早いうちに残しておかないと、どんどん幻覚に取って代わられて、最後には本当が何も無くなってしまいそうだ。

 父方の祖母の家は長崎県の市内から電車で1時間ほどの地域にある。曾祖母と祖母やその兄弟が暮らした家(曾祖母の家)の隣にもう1軒建て増しされたものが父の暮らした家(祖母の家)で、現在生活が営まれている場だ。その2軒は縁側とバルコニーが繋がっていて、靴を脱がずとも行き来することができる。

 物心ついてからほとんど欠かさずお正月とお盆に長崎へ帰省していた。実家は関東のベッドタウンだから長崎は全然違った世界で、私の中の田舎のイメージはだいたいここで形作られた。それと同時にお盆、つまり終戦の日を迎える場所だったし、土地柄もあって長崎と戦争は自分のなかで強く結びついている。戦争と関わっていたりいなかったりする長崎にまつわる記憶や、長崎と関わっていたりいなかったりする戦争にまつわる記憶を描写してみたい。

 長崎市内にある原爆資料館に初めて訪れたのは小学1年生のときだった。見に行こうと言い出したのは父か祖母か。きっと母ではない。3歳上の姉は早く見終わったのか途中で見るのをやめたのか分からないが、母と一緒に先に展示の外へ出ていた。なぜか私は淡々と、あるがままに展示を見つくしてしまった。再訪したときには確かに恐怖と不安を感じた。

 長崎市内の原爆にまつわる史跡にはいろいろと連れて行ってもらった。平和公園の爆心地近くにある原爆投下後のがれきの堆積を見た。ガラスの中に割れたお皿がたくさんつまっていた。一本鳥居は言葉だけが頭のなかでひとり歩きしている。浦上天主堂の焼け焦げたマリア像。私は長崎の街を生活者としてではなく部外者の視点で、一度破壊し尽された街、カステラの包み紙の貿易港だった街といったレイヤーとともに見てしまう。

 嫌な夢の話をします。実家のリビングの長椅子の柔らかい座面の上に横たわるアルミニウム製の銀色の棺桶の中には、ずる剥けになった姉の遺体が入っていた。父と母は生きていたときも死んでいた時もあったと思う。オレンジ色の服のレスキュー隊が家の中か外か分からないけれど確かに視界に存在していて、実家は公共的な雰囲気を纏っていた。でもきちんと地面ではなく地上5階にあった。翌朝、長椅子の上で朝食を摂る。テーブルの向かいで横柄に振る舞う姉を上手く嫌悪できなくて困った。

 父は多分戦争映画が好きだ。今よりもものが少なくさっぱりとした実家のリビングの小さなテレビで白黒の戦争映画が流れていた記憶がある。母は嫌がっていた。家族の誰も好まない戦争映画を父はどうして家庭の中心で見ていたのか真意は分からない。ただ、父は戦闘機や軍艦が好きで、戦争に対し若干のロマンチシズムを抱いているように見えることがある。この時もたしかそうで、私はそのような瞬間が嫌いだった。しばらく存在を確認していないけれど、DVDがたくさんつまった棚の右下の方に、まだ入っているのかしら。

 長崎に帰省しているとき、会話の中でひとことふたこと戦争の話が混じることがしばしばあった。黒い雨が長崎市内から離れた祖母の家のあたりでも降ったらしいとか、 負傷した人がここの病院まで運ばれてきただろうとか。祖母が小さいころおばさんに背負われて逃げたことがあるという話をしてくれたこともあった。私はどうして逃げていたのか、何から逃げていたのか聞きたくて「なんで?」と聞いたら、祖母は「戦争だから」と言っていた。それ以上の返答を求める必要は無いと思った。祖母が生まれ育ったのは現在の家がある場所ではなく、それよりさらにさらに田舎の海ぞいの地域だ。1度か2度訪れたが、そこはあまりに田舎すぎて私には少し怖かった。なんせ泊まったホテル(もう潰れてしまったらしい)から最寄りのコンビニまで車で30分とかかかるのだ。私は埼玉の実家から駅まで歩いて電車に乗ってしまえばある程度遠くまで簡単に移動できる環境で育った。1番近くのコンビニまでは徒歩5分だ。海と民家と道しかない場所に急に置いてけぼりにされたらと思うと不安になってしまうし、そうやって人の生活地で勝手に不安になっているのも土足で踏み込む居心地の悪さがある。私は一定ラインを越えた田舎ではきっと生活できないだろうと思った。戦争当時は炭鉱の町として栄えていたとはいえ、日本の端っこのように思える祖母が育った町にまで戦火は及んだのか。逃げ場なんてないんだろうな。

 曾祖母の家の仏間にはだいたい3代前の祖先の遺影が飾ってある。その中のひとり、軍服を来た精悍な顔立ちの青年は、たしか曾祖母の弟だと小さい頃に聞いたことがある。戦争で亡くなったそうだ。曾祖母も2人の祖母も2人の祖父も生き残った。もう私は写真の中の彼の享年を越しているかもしれない。

 安保関連法が可決されそうになっていたころ、父はニュースを見ながら頻りに不満をこぼしていた。国会議事堂の中も外も大騒ぎの中でついに法案が可決されたと報道が伝える。父は日本は戦争するんだと言った。丁度お風呂から上がったところだった私は「戦争嫌だな」と大きくて抱えきれない不安を少しだけ口に出すことが出来た。脱衣所にタオルか着替えかを持ってきてくれた母方の祖母が大丈夫だと言ってくれた。祖母の言葉はなんだか心強かった。

 中学一年生の夏、父と二人で長崎に帰省した。どうしてこれを選択したのか不思議だが、この時点でそれほど長崎が好きだったみたいだ。来て一日目の夜、嫌な夢を見そうな予感があった。というか、長崎に来ると戦争の夢を見るから嫌だと思った記憶がある。そう思うにいたるまでのいくつかの夢のことは忘れてしまった。祖母の家の毎回寝室として使わせてもらう部屋は、三方に窓がありしかもそのどれもサッシの立て付けが悪く、少し風が吹くと人が入ってくるんじゃないかと思うくらい窓がガタガタ鳴るから怖くて寝つけないことがしばしばあった。最近訪れたときにはサッシは新しいものになっていた。さらに、その部屋は調度品が少し独特で貴婦人の人形が2体、ひとつは赤と黒を基調としたドレスに顔はオードリーヘップバーンみたいなもの、もうひとつは白いドレスに白いボンネットを被ったのっぺらぼうのものがあった。他にも木彫りの熊や戦艦大和の模型、古めかしい木製の鏡台なんかが置いてあった。私はそんな部屋で予感に違わずその夜戦争の夢を見た。草原に1台の今にも飛び立ちそうな飛行機があり、その脇に手を繋いだ私と父親がいる。戦地に向かう飛行機を見送っていたんだと思う。飛行機のプロペラのせいか風が強く、乾いた褐色の草は激しく揺れ、ゆるゆるとしたパジャマが肌に触ったり離れたりを繰り返していた。風立ちぬのワンシーンみたいだった。母と姉がすでに亡くなっていることは自然と分かっていた。肌寒かった。きちんと2つの別の布団で寝ていたはずだが、目を覚ますと私は父の布団の中に潜り込んで手を握っていた。母も姉もいなくなったら私は父に縋るしかないのかと思った。

 今思い出せるのはこれくらいだ。戦争にまつわることを記述したから暗い話ばかりになってしまったけど、長崎には好きと楽しいもたくさんある。祖母の家の周囲の草いきれと言いたい匂い。冷たく透き通った水路を鯉が泳ぐ島原の城下町。そこで食べられる寒ざらし。山と海が異様に近い長崎の街。海のそばの潮の香りと少ししょっぱいアイス。これら全部が好きだ。あとハウステンボスもカステラも好き。他にも今は思い出せない好きがたくさんあるはずだ。最近、将来は長崎に住んで、一段一段白いペンキで囲ってあるコンクリートの階段を何段も上って、毎年お正月とお盆とお彼岸、お墓に生花をお供えしたいなんて考えている。

 それはそうとして戦争は怖い。少しずつ動きながら生命を維持するしなやかに見えるあなた方が、ひとつの爆弾やウイルスで意外と簡単に平衡を失ってしまい、瓦解した原子がもう一度あなたを形作ることはないということを受け容れがたく思う。あなた方が直接的であれ間接的であれ正当化された殺人を犯したり、殺されて喜ばれるようなことがあって欲しくないと思っています。(あなたのことだよ!)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?