派遣録74 闘病記③ 年金機構への怒り

 松山医師(仮名)の言葉

 2011年、3月後半、俺は脳腫瘍除去手術を受けるために浜松医大に入院した。

 不思議と緊張は少なかった。
 俺の主治医である医大の脳外科医、松山医師(仮名)は不思議な方で。手術の日程を決める時も、「いつやっちゃう?(笑)」とニヤニヤしながら言ったりする人だった。
 これが俺には良かった。重たい気持ちにならなかったのが、凄く良かった。
 この医師との面談で、俺は開頭手術への陰鬱な気持ちが楽になり、緊張や死への恐怖が起こらなかったのだ。
 俺には、この松山医師の接し方がかなり良かった。今でも感謝している。他の人には軽薄に見えたかも。

 ちなみに、この松山医師はベテランの脳外科医であり、その後図書館などで調べたら、毎年論文を出していたくらいの優秀な外科医だったらしい。その後もお世話になった。


 松山医師は、俺にいろんな話をした。

 まず、迫る除去手術だが、「成功率」は絶対に言わなかった。
 理由は…、
「例えば、医者が『成功率80%』と言ったら、手術される本人、家族は、(もう成功だ)と思い込んでしまう。だけど、20%は失敗する可能性があるんだよ。…だから、僕の口から『何%だ』とは言わないよ。患者は必ず“思い込む”から」
…という事だった。
 かなり納得した。
 確かに命をかける俺たち患者は、少しでも成功して欲しいと“思い込む”。
 だが、確率はあくまでも確率。絶対はない。

 そして、術後、俺の言葉が不自由になり、身体が
少し不自由(左半身)になること、視界が一時的に狭くなること(視野障害や幻覚)の可能性を示したら。
 俺の頭の腫瘍は言語中枢、視野部、身体機能の神経に侵入していて、どんな障害が残るか、分からないと言われた。
 だが、術後のリハビリで復活出来る事も告げた。

 これは事実だった。
 リハビリである程度、回復は出来た。だが、悔しいが、言葉は今でも不自由だ。今でも苦しんでいる。

 そして、俺の腫瘍は大きくて、一度では取り去ることが難しく、2回に分ける可能性が高い事を説明した。


 不採用通知(年金事務所💢)

 除去手術に向け、頭の中の余分な血管からの出血🩸を防ぐため、塞栓手術などをカテーテル手術を数回受けた。

 開頭手術が近付いた日。
 母親が「年金事務所から手紙来たわよ」と俺の病室に持ってきた。(両親には準職員採用試験の事は言ってない)
 待っていた合否通知だ。1月に受けた試験の結果がようやく来た。
 俺の現状は最悪。脳腫瘍で、手術間近。首は痛い。目の焦点は定まらない。
 そんな状況でも、俺は期待した。面接の感触は悪かったが、この状況を変えてくれる事を願った。

 …不採用だった。

 心の底からショックだった。
 …“このタイミンで”、これ(不採用通知)、送ってくるのか💧

 夕食後、病室から浜松の夜の灯りを眺めていたら、泣けてきた。
  
 これから生死を賭けた手術をする人間に、こんな通知をするのか?
 手術が成功しても、俺はまだ非正規(アシスタント職員)なのか。
 俺はどこまで“コキ使われる”のか。
 面接した中部ブロック本部は俺の“この”状態を知っていたのか。脳腫瘍になった非正規など、合格させるわけがないかのか?

 だが、これで分かった。
 あの課長や福原の“あっさり”とした対応。
 あれは、要するに『お前など受かるはずねーだろ?(笑)』という“嘲り”だったのではないか。
 そうなると、俺が脳腫瘍である前に、組織(年金機構)に反抗的な俺など最初から受かるはずがなかったのではないか。
 面接は形だけ。
 課長が『コイツ、面接だけ受けさせて。どうせダメだから…』とでも頼み込んだのでは。自身が俺から恨まれたくないから。つまり保身。

 そして、日本年金機構からしたら、俺など反抗的な非正規(バイト)の一人に過ぎなく、死のうが、生きようが、“知らん話”なのだ。
 所詮、そんな存在でしかなかった…。
 “この組織”は、俺をそんな風にしか見てなかった。
 脳腫瘍の俺など、“関わりたく”無いのだ(と思えた💧)

 俺は病室の窓からの景色を見て、泣きながらそう思った。
 何て、酷い組織だ。年金機構とは俺みたいな非線形にこんな仕打ちをするのか💢
 …絶望した。 そして、思った。
 (…馬鹿にしやがって💢)
 (…俺など“勝手”に死ねば良いのかっ💢)
 (この野郎💢)

 俺は、確かに反抗的で、前課長の“志の輔”や福原とは口論した。頭に来ると揉めたりした。それだから、脳腫瘍になろうが、死のうが構わないのか。これが仕打ちか?

 アイツら💢💢💢

 俺は絶望し、怒り、嘆いた。

 “この思い”が、術後数ヶ月後の俺の“ある行動”に繋がる。


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