少ないリソースと機会均等の平等 (1156文字)
リソース(resource 資源・財源)が全員に行き渡らないくらい少ないとき、機会均等(全ての人々が同様に扱われるべきであるという観念)に反しないよう全員にリソースを配布しないのが正しいのか、機会均等とはならないが数量の許す限りの人員にリソースを配布すべきか、について考えることがあります。
かなり以前、ある小学校にパソコンを導入して児童にパソコン教育を受けさせようとしたところ、職員組合が「パソコンを導入できない小学校もあるから、機会均等に反することには反対だ。」と主張し、結局その地域のどこの小学校にもパソコンが導入されなかったということがありました。
私が中学生だったときも(さらにもっと以前ですが)、英会話授業のためにテープレコーダー(当時はカセットではなくオープンリールでした。)を1クラスの生徒分の台数を用意して、「ラボ教室」という専用教室に格納してあったのですが、なんらかの事情で使われず3年間ずっとそういう英会話の授業を受けるませんでした。
私はたまたま中学一年の担任の先生がアメリカ留学経験があり英会話の重要性を理解していた人で、事あるごとに英会話によるコミュニケーションの重要性を教え込まれましたので幸いでしたが、そうでないクラスの生徒はずっと日本語訛の強い英語を聞かされていたことでしょう。
私はこのラボ教室とテープレコーダーによる英会話授業も、前述のパソコン授業同様職員組合の機会均等に反するものは許さないという反対で頓挫したのだろうと思います(これは私の推測です。)。
ここでは、パソコンの話に限定しますが、確かに機会均等というか児童全員を平等に取り扱いことは重要だと思いますが、現実問題としてリソースの数が揃うのを待っている間にも児童や生徒は年を取っていきます。そうすると、彼らはパソコンを学ぶチャンスを失ってしまうかも知れません。寿命のある私たちにとって、時間は貴重です。向上しようという意欲のある人間にとっては特にそうです。
私個人の考えですが、ここはリソースが全体の児童数より足りなくても、パソコン授業をすべきだったと思います。そのことで授業を受ける機会が均等に与えられなくなりますが、それは、パソコンの使いまわしなどの対策で何とかなるのではないかと思います。
パソコンについては、授業で教えられなくても自力で操作できるようになる人がいて、そういう人は大学で論文を書くにも就職して仕事で使うにも苦労しないかもしれませんが、一方パソコンに馴染めない人もいて、そういう人達は小学校でパソコンに馴染む機会を奪われた結果、大学でも職場でも辛い思いをすることになってしまいます(全員ではないでしょうが。)。
私は、少なからず当該職員組合の人間に怒りを覚えています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?