『赤めだか』を語る

 『赤めだか』(立川談春著 扶桑社)は、落語家立川談春師匠のエッセー本です。私は芸人の世界を知らないので、このエッセーの内容を外部の人間としてしか感じることができないのですが、談春師匠の師匠である立川談志師匠という落語家については「はた迷惑な人」という印象があります。二日酔いで国会に来てみたり、瀬戸内海で暴れ回っていたサメを「オレが捕る。」と船を出してみたり。
 まぁ、二日酔いで国会に行くことはそれほど責められないとは思います。一般の人だって、二日酔いで仕事に行くことはありますし、どうしても飲まなければならない酒席というのもあります。ましてや人気商売の落語家ならサラリーマンなどよりも外せない酒席も飲まなきゃならない酒も多いだろうと思います。その事情を踏まえたうえで、国会議員と落語家のどっちが大切なのかという問う人もいましたが、それに答えると問題が拡大してしまいます。それに、そういう問いをする人は「国民から議員としての役割を果たすことを付託されているのだから当然国会議員と答えるはずだ。そう答えないと承知しないぞ。」と考えているのでしょうから、必要以上の火薬量を仕込んだ地雷みたいなもので、踏んだが最後どこまで爆風が及ぶか分かりません。

 それはそれとして、談春さんはその立川談志師匠の弟子ということですから、破天荒な談志一門の日常を描いたんだろうと漠然と考えてこの本を買いました。読みはじめてしばらくは「談春(師匠)は、文才がある。おもしろい。」とスキップするように読み進んでいましたが、119ページ(文庫本のページ数です。)で凄いものを見ました。以下引用します。

 「俺は忙しい。昔ならともかく今は覚えるための教材も機械もたくさんある。だから下手な先輩に教わる必要はないんだ。名人のテープで覚えちまえばいい。覚えたものを俺が聴いてやる。直してやる。口伝を否定はしないが、教える側の都合にお前達の情熱を合わせる必要はないんだ。恵まれた時代なんだ。俺も小さん師匠からは四つしか教わっていない。教えてもらえないから前に進めないなんて、甘ったれるな。根多によって替わるサンプルがわからないのなら、志らくに教われ 」

 これは、談志師匠が稽古をつけるよう願い出た談春師匠に言ったことです。根多とはネタのことです。志らく師匠は、談春さんの弟弟子です。(師匠師匠と敬称をつけるので分かりにくいと思いますが、当時は談志師匠以外はまだ師匠ではありませんでした。でも、社会人の礼儀として師匠と敬称をつけています。)

 私は、「落語は伝統芸能であり練習方法も昔どおりで、口伝しか認められていない。」と思い込んでいました。たしかテレビドラマの『古畑任三郎』の落語家の殺人の回でもそんな風に言っていました。それなのに、テープなどの教材を利用しろと談志師匠は仰る。さらにネタの相談は弟弟子にしろとも。ネタの相談については、「芸人の世界って縦社会じゃなかったっけ?」と思いました。
 私は、義務教育の授業もネット配信の動画でいいと思っています。教育大卒の先生にも、授業の下手な先生はいますし、だいたい先生から授業負担を減らせばかなり働き方改革になるはずです。世の中には予備校の先生のように授業の上手い人がいますので、何人か見繕ってその人達に配信授業をやってもらえばいいと思います。そこで、分からないことは生徒が先生に個別に教えれもらえばいいわけです。頑なに「先生と生徒が対面して行うのが授業だ。」としなければならない必要性はまるでない、と思います。
 上記の談志師匠の発言とされる部分を読んで、自分の考えは間違っていはいないようだと思いました。
 それに、飛び級制度というものがあるとおり、年下の者の方が勉強ができるということがありますので、年長の者が年少の者に教えれもらうことだってあっていいはずです。年長者は年少者より必ず優れているなんてのは幻想だと思います。でも、縦社会の落語界なら芸歴で上下が決まるはず、それをあっさり「志らくに教われ」と言い放つ談志師匠。
 これは勉強になりました。
 しかも談志師匠は、「覚えたものを俺が聴いてやる。直してやる。」とも言っています。弟子をほったらかしにするのではなく、師匠が手直しする素材を作ってくるよう言っているわけです。

 さらに談志師匠は、「教える側の都合にお前達の情熱を合わせる必要」なない。とも言っています。確かに情熱は燃え上がるのも早いですが、消えるのも早い。だから、情熱が湧いたらすぐ対応しないと成果がでません。ただ、教える側も人間ですから、浮世の都合もあれば自分の体調もあります。必ずしも教わる側とタイミングが会うとは限りません。だったら、その情熱を一人で成果に結び付ける方法を選ぶべきでしょう。私は独学でコンピュータとプログラミングを学びましたが、一人でやっていたため誰にも教えを乞えず、誰とも情報共有できなかったため、書籍をたくさん買いました。「こんなやり方でもでいいのだろうか。」と思いながらも他に方法がなかったので(当時はインターネットが普及していませんでした。)、とにかく分からなくなったら書籍で補うということをやって、それなりにマスターできました。人生は限られた時間ですから、情熱が燃え上がっている時間を大切にしなくちゃならないと思います。

 立川談志師匠は、「はた迷惑」なことばかりしてきたと思いますが、師匠としてはちゃんとした教育者だったんだなぁと思います。残念ながら私には落語の芸というものがよく理解できていないので、談志師匠の芸についてどういう言う資格がありません。だから、この『赤めだか』の内容の理解も道半ばにも至っていないと思いますが、このエッセー本は実に素晴らしい。

以上

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