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友達100人なんて、無理 (1728文字)

 『友達100人できるかな』という歌があります。
 私自身はテレビで聴いたことしかないので、「そういう(友人を欲しがる人)もいるんだなぁ。」位にしか思いませんでしたが、社会人になってみて、友人を100人持つということの非現実性にだんだん苛立ちを覚えるようになりました。ただ、この歌自体は100人の友人に囲まれた幸せな環境を夢見ている子供を描いているだけなので、この歌自体をどうこう言おうとは思いません。

 先日、歌手の和田アキ子さんが「昔は手下が700人くらいいたんだと気づいた。」というようなことを言っていましたが、友人も100人となると組織性なしには維持できないでしょう。そうでないと、和田さんの例のように、顔も名前も知らない構成員が存在してしまい、統制がとれなくなってしまいます。
 組織的につながる人間関係を「友達」と呼べるとは思えませんので、「友達100人できるかな」ってのは、友達という人間関係と、100人という規模との間に、矛盾が存在していることになります。

 漫才コンビ爆笑問題の太田光さんは、高校時代友達が一人もできなかったという話をよくされています。
 高校は、進学するための技能なり、職業的技能なり、を身につけるという目的を持って通っている学校なので、友人などいなくても別に構わないと思いますが、人が集まれば自然に集団ができるので、その集団から疎外されないように調子を合わせたりご機嫌を伺ったりする必要が出てくることは理解できます。
 でも、そなんなこをせずに自主自立をもって高校生活を送ることは、それはそれでいいとも思います。

 私は現在友人と呼べる者は3名います。彼らが私のことをどう思っているのかは聞いたことがありませんが、恐らく友人の範疇に含めてくれてはいると思っています。
 私は、3名というのは友人の数としては少し多いのではないかとは思っています。
 この3名のうち、1名は高校の同級生で、大学卒業後は就職して遠隔地にいるのでめったに会うことはありません。
 残りの2名は就職後に知り合った者でほぼ同じ年齢です。

 話は戻りますが、友達の存在は「自分がある集団から疎外されていないことの証明に過ぎない。」と考えれば、「友達などいてもいなくてもどっちでもいいさ。」ということになろうかと思います。
 数でいうと、友人はせいぜい2人。3人いたら多いくらいだと思います。もちろん、友人がいなくても差し支えないと思います。

 私の経験をいうと、高校生時代にとてつもなく勉強ができた同級生Aには友人らしい者はいませんでした。
 そのAはあまりにも勉強ができるので、①先生がAを特別扱いする、②他の生徒がAを若干嫉妬する、③他の生徒のうち要領のいい奴は勉強を教えてもらうためにA近づく(功利目的な接触です)、④Aは自分より勉強ができない生徒と話すことを好んでいなさそうで③の生徒とは親密にならない、⑤自分の勉強時間を無駄にしたくないのか授業が終わるとすぐ一人で帰宅する、といった具合でだいたい一人でした。
 ただ、Aは学力で他を圧倒していたので、孤立というより孤高といった感じでした。
 Aは国立理系のコースから国立大学の医学部に現役合格したはずです。私もAの友人ではなかったので、卒業後の詳細は知りません。

 テレビの学園ものでは、勉強のできない生徒を中心に物語が展開されて行きがちです。確かに、勉強ができる者の中で勉強がそうでもない者のいたたまれなさは想像できます。
 でも、逆に勉強がそうでもない者の中に勉強ができる者がいるという場合も辛いと思います。クラスメートから知的刺激を受けることがなく、目標とする生徒も見当たらない。自分は向上したいのに、そのきっかけが学校に存在しないという環境。前記のAの気持ちが分かるような気がします。

 同級生だってなんだって、100人も集めたら中にはおかしな奴が混じっているものです。
 そういう者と付き合うリスクを負うくらいなら、爆笑問題の太田さんのようにずっと1人でいいんじゃないかというのが私の見解です。
 それに、真の友人ってなかなかいないものです。
 100人なんてとても無理。

#創作対象2024 #エッセイ部門 #友達100人

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