オリジナリティ。

多様化が叫ばれる社会。マイノリティが生きやすくなったと同時に「個性」が強制される時代に、私は生まれた。
根っからの飽き性で何かを極めた経験なんて持ち合わせていない私は、その時代の波に飲まれて苦しむことになった。

『勉強だけできていればいい時代は終わった。より魅力的な経験を、能力を。あなたの個性を見せて』
簡単に言ってくれるけど、自分だけの「なにか」を見つけるのは難しい。
例としてあげるなら、埋葬。
「宇宙に打ち上げてほしい」「鳥に食べさせたい」「土に還りたい」「海に散骨してほしい」珍しく見えるこれらの方法を試している人は既にごまんといる。私が新しい葬儀方法を思いついたと思っても、おそらく誰かが先に思いついていることだろう。

個性に対する焦燥感がなくなってしまったのはいつだったか、もう思い出せない。
しかし、
『アイデンティティの確立に悩む思春期は私にとっては苦しいものだったけれど、あれはあれでいい思い出』こう割り切れるようになったきっかけは覚えている。

高校時代、私は探究科に所属していた。中でも私の母校はSSHの指定を受けていて、尖った子たちがたくさんいた。いわゆる『唯一抜きん出て並ぶ者なし』がゴロゴロいた。
しかしじゃあ私も個性的ですごい奴かと言われるとそんなことは全くない。周りが凄かったというだけ。

探究活動は、総合の授業時間を使って専門的な分野を探究し、発表するというもの。大学のゼミでやるようなことを先にやっておく、というものが探究科だ。

私はそこで社会科を選択し、日本史に絞って研究を始めることにした。日本史が好きだから選択しただけで、特に研究したいテーマがあったわけではなかった。
日本史の研究で1番難しいと思ったのはこの『テーマ決め』。日本史に限らず文系の研究は、自分がほしい資料やデータが必ず入手できるとは限らない。(理系も実験施設などの問題でテーマ選びには限度があるけど)しかしそれらが潤沢にある場合は、すでに先行研究でしゃぶり尽くされている。「研究のしやすさ」と「オリジナリティ」の両立がとにかく難しい。
活動を行う以上誰かの論文のコピペなんて許されない。なにかしらのオリジナリティを出さなければ…。
かなりプレッシャーを感じていた私に、指導担当の先生が肩をすくめてこう言った。
「君はずいぶん自分のことを買い被っているね」
ぽかんとしていると、先生はお構いなしにこう続ける。
「いいかい、オリジナリティはたしかに大事だよ。けど君が求める“オリジナリティ”はほとんどの人間には無理。僕だってそう。研究なんて手垢まみれが当たり前。けど色んな論文を読んで君が導き出したテーマや仮説、結論だって立派なオリジナリティ。研究はそんなものよ」
だから気負いしなさんな。そう言われて、肩の荷が降りたのを覚えている。

エジソンみたいな先進的で天才的な発明をしなければいけないと思い込んでいた。でも、もう少し楽に考えてもいい。学問の敷居はそんなに高くない、寛容なのだと先生は教えてくれた。

鮮やかな個性を出すのは難しい。でもちょっとしたものの見方や価値観で、意外と個性は出るものだ。
自分とはなにか、見つめすぎると見えなくなる。常におおらかにありたい。

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