夏目漱石「三四郎」

 



好きな所。



 女は紙包を懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白い手帛を持っていた。鼻の所へ宛てて、三四郎を見ている。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭い香りがぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云った。三四郎は思わず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸る。
「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白い手帛を袂へ落とした。
「御存じなの」と云いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却って遠くにいるのを気遣いすぎた眼付である。その癖眉だけは明確落ちついている。三四郎の舌が上顎へ密着てしまった。
 女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞兼る程の嘆息を、かすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて云った。
「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
 聞き取れない位の声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子は斯様にして分れた。下宿へ帰ったら母から電報が来ていた。開けてみると。何時立つとある。



「三四郎」新潮文庫より

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