かっぷ・おぶ・こーひー

 嫌な気分をどんな風に言い表せるかなんて、ペン回しが出来るか出来ないかくらいに、どうでも良いことらしい。それってイマイチ信じらんないな。なんて考えながらあたしは座ってたけど、それは不成がダメな将棋で成駒するような確実さであたしに迫って来つつある「事実」だった。
 踏切近くの喫茶店。一番入り口寄りの席は外側に張り出している。来客を出迎えるライト
はロンドンの町中にある街頭のようななりをして、雪景色にどこまでも馴染む。季節外れの
雪ならよかったのに。
 おばあさんが一人きりで暮らしている年季の入った一軒家。つる草が壁を這い回ってい
るせいで輪郭はすっかりわからない。でも、おばあさんの息子や娘たちが帰ってきたときだ
け、そのおうちも往年の息遣いに戻ったりする。そういうのって生理的にうけつけない。
 「そうかなあ、そんなにズレてるかなあ、彼。」とサヤカがコーヒーカップの華奢なハン
ドルをいつくしむように撫でながら言った。彼女はこういう時に限っていつものスケバン
じみた物言いをしてくれない。酒の入った時とあたしがなにかを懐に入れて持ってきたと
きには歯切れのいいサヤカ節はトロトロとまどろんでしまう。それでもあたしには彼女し
かまともに打ち明けられる人がいないのだ。
 「ズレててもいいの。でもさ、あの人の中にあたしの居場所が無いんじゃないかなって思うことが時々あるんだ。」
 「へぇ、その切なさは詩人への第一歩じゃん。」
 あたしはムッとする。
 「詩人になんか興味ないよ。あたしはただありのままを言ってるの。キーヨはあたしなんかよりも友達の方に自分をあげちゃうんだ。ノムリってやつの話、あんたにしたっけ?」
 「ん、聞いたような気もするけど。」
 「ほら、女の友達とホテルに行ったけど断られちゃって、仕方がないからそのコの見てる前でオナニーしたって、あいつ。」
 壁にソフトボールを投げつけるような気分だったけど、サヤカは変則的な馬の鳴き声に
似た、あの下品な笑い方をして喜んだ。
 「ああ、あいつか!ほんとにキショいんだなぁ、でもケッサク。」
 ひとしきり笑うと彼女はまたしおらしくコーヒーカップを持ち上げる。なんなんだろうねぇ。
 「そのノムリがさ、いるわけよ、キーヨのコミュニティにさ。住み着いてんの。あたしからしたらとんだ疫病神だよ。一昨日キーヨがね、あいつも含めた何人かでサバジで飲んだんだ。あたしも誘われたんだけど、行くわけないじゃない?だから一人で布団被ってゲームしてた。そこに電話が来てさ、いい気分になっちゃってるのよ。誰それがこういったああいったって話を延々とされるの。また、ノムリさ。」
 サヤカはあいつのことをひいきにしてるみたい。身を乗り出してきた。
 「またなんかやったんだ!今度は聖水でもかけ流してもらったとか?」
 「こんどはそんなに下品な話じゃなかったよ。サイトだかアプリで知り合った人とエイノウチに行ったんだって。でもノムリは腹の調子がどうもよくなかった。そんでカフェに二人で入って早々にもよおしちゃったんだ。五分か十分して席に帰って来ると女の子はいなくなってて、呑みかけのコーヒーが三分の一くらい残ってたんだってさ。三分の一ってところでキーヨは爆笑したんだ。」
 「それのどこが問題?」と頭をかしげるとライトブラウンのセミショートがこれ見よがし
に弾む。あたしは彼女の髪の毛が憎らしくなることがある。欲しいものだったし、でも、目
障りにも思う。
 「だってさ、」といってあたしはちょっと考えた。机の表面や天井の凹みから覗いている
照明を彩るガラスがあたしの思考覆いかぶさる。聖母の慈しみみたいに。
 「ぜんたいおかしいんだよ。ノムリ自体もおかしけりゃ、それを笑い話にしてるのも変じゃない?汚くて、おまけに後味の悪い頭のこんがらがってる人間の話がどうして面白いんだろう。聞いてて悲しくなるような話をみんなでめいめい出し合って、その雰囲気に浸りきってる。漬物作るんだったらそれでもいいかもしれない。でもあたしたちは日々変わってく。どうして連中にはそれが分からないんだろう。どうしてキーヨはそこから出ていこうとしてくれないんだろう?」
 サヤカは笑った。けど、ノムリのオナニーの話の時とはちょっと違う。さっき机の表面や
飾りガラスが目配せしたように、彼女は目配せしていた。
 「あんたって変わってる。ほんとに。」
 「なんでよ。楽しく幸せにいるのがいいに決まってる。人殺しだって強盗だってそう思ってるに違いないんだ。サイコパスやセックス魔だってそうなんだ。ノムリたちはそこまで堕ちてはいないし、自分たちが何を求めてるのか、ホントは分かってる。なのに不徹底なまんまヘラヘラしてるんだ。あたしにはそれが許せないし、怖い。」
 あたしはちょっとむきになっていた。心の砂場で、帰ろうと促されて怒ってしまった小さ
い子が良く出来た砂山を蹴り崩し、幼稚園のスモッグに泥を飛ばしてしまった。
 「マジでおもしろいよ。あんた。掘削機みたいな女だね。見る見るうちに深いとこに消えちまう。あんたはナゼナゼ病だって、あたしゃ断言するね。哲学や思想って言うのはあんたの掘った穴の中から出てくる。でも気をつけないとあんたはホルマリン漬けになっちゃうよ。問うばっかりで答えを見つけなきゃ。もしくは答えを見つけるって言うのが問い続けることなんだってことを分からないとね。」
 珍しいことだった。サヤカはなぞかけみたいなことを普段言わない。むしろいつもあたし
の愚痴のほうがよっぽど謎かけめいていた。
 「どういうこと?」
 「あんたさぁ、キヨシ君とどうして付き合うことにしたの?確かあんたの方からグイグイ行ったんじゃなかった?よさげな石を見つけたから磨いてみようなんて思ってたなおあいにくさま。きっと彼は変わらないわ。もともと磨かれてるからね。あたしはあの人のことちっともわからないけど、あんたの褒めそやしてる機転の利くところも、アイデアマンなところも皆彼自身よ。そしてノムリやその周りの連中と一緒にいるってこともね。あの人の魅力をあの人の身体から引き剝がそうなんて真似、出来ると思う?あの人はあの連中やそれ以外の人たちと関わる中で今の彼になったんだ。恩とか腐れ縁とはまた違ってさ、連中はキヨシ君の身体の一部になってるんだよ。」
 いつしかサヤカは煙草を取り出して火をつけていた。彼女はしゃべりすぎるのが嫌いだ
った。自分の話の真っ最中でも相手が合いの手を入れてきそうになったら必ず隙間を作っ
てくれるのが彼女だった。あたしは口を開きかけていたわけじゃないけれど、何かが彼女に
囁きかけたのかもしれない。
 「いいことおしえたげる。」と彼女は煙を吐き出しながらそういった。
 「人と話すときはイモムシかカタツムリになった気分でいるといい。やつら、葉っぱの先っちょまで来たらさ、だまって次の葉っぱに移るだろ?あたしたちもそれ、見習おうよ。家族と要る時はその葉っぱ、キーヨと二人きりの時はあの葉っぱ、あたしとおしゃべりしてるときはこの葉っぱさ。その時々に乗り移って、でもあたしはあたし。あんたはあんただよ。ただ、その葉っぱがどう生えているかが分かっちゃえばノムリとキーヨのやり取りがある意味神聖な儀式だってことが分かると思う。そのときあんたはもう芋虫そのものじゃないと思うよ。それを見てる無邪気な少女さ。自由に葉っぱを行き来する芋虫を見ている少女。それがあんたになる。」
 あたしはフィッツジェラルドの短編に出てくるムーン医師のことを思い出していた。少
しくたびれた顔をして「私は、五年の歳月」と答えたあの医者を。
 「ねぇ、アズサ。あたしもみじっていい居酒屋知ってるんだ。丁度いいころあいだし行こうよ。ユイコたちも六時くらいには来れるって言うんだ。よかったら久しぶりにあのコたちも誘ってさ。」
 
 あたしは心づくしには弱い。

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