【エッセイ】ぴょんぴょんしてねぇよ

仮にね、誰かが文学をやったとして、その心はある意味死んでるな。

散歩をしているとススキの群れの中でスズメたちがご機嫌で飛び回っている様子を見るだろ?多分、軍配はあいつらの方に上がるはずだ。

モノホンの文学、文学のイデア、究極の文学、超越的文学。どんな呼び方でも構わないんだけど、勝義の文学って言うのは自然そのものだと思う。

スズメたちの何が文学か?

スズメって言うのはなかなか面白い連中で、さっきまで仲良く並んで大乗仏教の仏像みたいに膨らんでいたのに、つぎの瞬間には縦に細長くなっていさかいを起こしたりする。
うちにいるインコの場合ちょっとこちらを揶揄っているようなこともあるから、野性のスズメだって同じことかもしれない。

話が逸れた。

スズメの持つ文学性はぴょんぴょん跳ね回っていることそのものにある。なんていうんだろうね、時間を線分であらわした時のただ一点、そこにしっかりと根を張っているという点にある。あいつらを見た時のすがすがしい愛らしさがその指標だ。

もちろん、スズメじゃなくてもいい。
やつらが駆け巡っているススキの群れ。あれが風にそよぐのだって立派に文学だ。

主人からも使用人からも軽んじられているのに自分自身はまったくの幸福のうちにある(註:幸福だと「思っている」のではない)そんな虚心坦懐な番頭がいたとして、彼は非文学的だろうか?
むしろ、彼のために義憤に燃え、報復をそそのかすような人間性の方がよほど非文学的ではないかね。非文学というよりも低劣な文学だ。

低劣な文学。
俺は冬虫夏草の文学と呼びたい。
著名な文学者の中には冬虫夏草の文学を世に出し、それ故に今日まで名声の衰えない人々もいる。彼ら自身はちっとも救われなかった。
書くということそのものが自己目的になって、際限がない。
彼らの屍は妙薬として世間に珍重されるに至る。

確かに妙薬だ。

あそこまで徹底して自分をすり減らすことにまい進する人などそういない。
徹底していること。それが唯一彼らが称賛されるに値する理由だ。

しかし、薬は人の傷んだ部分を回復させたり、改善させる限りにおいて薬なわけで。

妙薬のおかげでモノホンの文学が始まりそうなところを、服用者が無理にせき止めて、自分自身を冬虫夏草に食い破られた哀れな芋虫にしてしまう人も多いんじゃないかな。

それが菩提心によるものなのか、極度のオナニー狂いなのかは今の俺には分からないね。でも、前向きな気づきが欲しいとは思ってる。

さて、先日上野の喫茶店「古城」にて中途で終わってる俺の作品に対する批評を友人に乞うた。
彼はセブンスターを吸いながら文学仲間同士で討論したことや、日々の自分の研究に基づいていろいろと意見してくれた。
唯一気に障ったのは、一読してから批評するのではなく、欠点があればその都度物申してくれたということだったが、まぁ、構わない。
誰かを師として教えを乞うならば、一寸の恥ずかしさは飲み込むべきだと思う。色々と後悔があるわけサ。

彼の言ったことはこう。
「君の文章のうち会話の部分、つまり物事が具体的に描写されている所はなかなか読みやすいと思う。ただ、入りの部分はどうもなぁ。絶えず直喩で文章が進んでくんだもん。」

この簡単な事が書き手の俺には分からなかったんだから悲しいね。
五回は読み返したはずだ。
前に、他の友人に見せた時にはそんなことはちっとも言われなかった。
ともかく、有難いね、こういう友人がいてくれるのは。

それにしても、どうしてあんなにも直喩ばっかり使っちまったんだろう?
俺は帰りの電車で考えていた。
それと同時に、先日買ったトンビの着こなしについても俺は考えていた。

薄緑色の着物の上に真っ黒なトンビを羽織った俺。足には銀座でオーダーした茶色のブーツを履き、手賀沼の周辺をそぞろ歩きしている。
そんな時、沼のくぼんだ所にススキの群れを見つける。
そこには愛らしいスズメたち。
彼らを見つめているうちに愛らしいなんて言う気持ちは無くなって、俺自身連中の輪に入って駆け回るようになる。
胡蝶の夢のように。

ははあ、と思う。

俺は頭で考えすぎていたんだな。

ちっともぴょんぴょんしてねぇよ。

案外蚊帳の外に置いていた一人称が日の目を見ることになるかもしれないな。


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