【エッセイ】失恋について

 「国破れて山河在り」という春望の一節を、未だに失恋の比喩としてのみ受け取っているのが私という人間である。母国を失う悲しみを知らないということは有難いことであるのに間違いはないが、かといって勝手な比喩解釈をしたり顔で弁ずるというのもなかなか恥ずかしいことだ。振り返ってみると、私はとても恥ずかしい気持ちになる。いままでに足を運んだ喫茶店、バーを洗いざらい掃き清めない限り、私のけしからん声音がどこかに散らばっているかもしれない。
 さて、この比喩的解釈を私は非権威的な比喩として、中身がないようでありながら中身があるかもしれないギフトボックスとして描き出したい気分になっている。
 「国破れて山河あり」あらため「恋破れて山河あり」。うむ、聞こえはよくないね。竜の頭をミミズの頭に挿げ替えたような居心地の悪さがある。しかしこのメランコリックなミスマッチさがこの言葉を発する人間の精神性の未熟さをよく演出していると私は思う。
 彼が実は何を言いたいのか。私にはわかる。比喩はAとBとの関係をpとxに置き換えることと言えるはずだ。それなのに「恋破れて山河あり」といってしまうとAとxとの関係が言われてしまっている。火とそこから立ち上る煙の関係は、凧揚げをする人と凧の関係に置き換えることも可能かもしれないが、人から煙が立ち上り、火が凧揚げをするなんてことはない。こうしたねじれが「恋破れて山河あり」にはあると言える。
 このねじれは、この言葉を心に抱いている人の居心地を悪くする。もとの一節において、国家という人為的なものは滅び、一方で大いなる自然は相変わらず泰然として存在している。大いなるものががれきの隙間からその姿をあらわにするということが悲惨な状況下で起こっているわけだ。これをニヒリズムの超克と言えるかどうかは分からない。ただし、「恋破れて山河あり」は条件付きでニヒリズム的悲観的態度の超克だと私は考える。つまり、一方では全くの無思慮ともいえるし、一方では突き詰めて考えることで彼は世界に広がってゆくことが出来るのだ。彼は世界を支配しようとするのではなく、岩間を流れる水になる。
 全くの無思慮は支配への渇望となって現れる。この時に「恋破れて山河あり」は外界に対する憤りといって差し支えない。実に恋こそ彼にとってはスカンバであった。世界を支える柱は恋という思念であった。これがへし折れてしまったということは世界の終焉を意味する。地上の山も木々も建物も天が落ちてくることによってぺしゃんこになるはずだ。だのに相変わらず世界が無事であるという事実。このことは恋する者にとってまことにいぶかしく、やがてはそれを通り越して原理主義的観点から全く許されざることのように思われてくる。この人物は砂利の敷き詰められていない水槽の中で砂利の下に潜り込もうと身体を打ち付けているヒラメだ。ともかく彼は世界という水槽から抜け出なくてはならないと感じるようになる。勇気のあるものは二つの選択肢を持っている。第一に世界そのものを壊すこと。それは物騒なやり方かもしれないし、もっと消極的で諦念に満ちたものかもしれない。第二には世界を成立させているのが自分であるということを悟り、世界の根幹たる自己を滅ぼすことである。これにも積極的と消極的との二つがあって、前者では自殺、後者では諦念に満ちた似非出家者の生き方などがあげられる。
 私はこのような二つの立場、世界の破壊者と自己の破壊者という立場をそれぞれ独立のものとは思っていない。もし、前者の立場の者が自分の見解に行き詰まりを見て取った時に彼は後者の見解に親しむだろう、と考えているのだ。世界の破壊者と自己の破壊者は前後の関係にある。
 世界の破壊者は権威を失った亡命政府の首魁に擬えられる。民意は全く離れてしまっているのに相変わらず支配欲だけ盛んだ。彼にとって自分の居ない祖国が存続しているという事態は全くナンセンスでしかない。世界はナンセンスである!そして私のみがナンセンスをセンスに変えられる!と彼は常々思っている。
 並々ならぬ精神力(それはあくまでタフさにかけてだけである。実存の問題への真摯さとは関係ない)を持っている人ならば、この思い込みに飽きが生じるのに相当の時間がかかるだろう。しかし、有難いことに大抵はこの発想に飽きてくる。「飽きたくない」と踏ん張る程に彼はどんどん飽きてくる。なぜならば傷口から骨が出ているということを彼は知っているから。適切な処置をしていないことを彼は認知している。
 世界はナンセンスである!しかし、私にナンセンスをセンスに変える力はないのだ!という傷口の骨。無味乾燥なグロテスクさが彼を襲う。この無力感はそれでもなお支配欲の残余に突き動かされており、ナンセンスの中を意味ありげに生きている人々と自分との対比などを通じて素っ裸の自己に気を取られてしまう。彼は相変わらず世界をナンセンスだと思い、このナンセンスという言葉を非正当であると思い込んでいる。本当は有意義であるべきだと思っているのだ。だとすれば、このナンセンスさを変えるすべを持たない私が俄然問題である。「儚さ」を世界の本質的な属性だと見て取った彼は、彼という見張り台をぶち壊すことで世界を終焉に至らしめることが可能であるという発想に親しむ。世界は「私」に見られている限りにおいて存在し、有意義であるべきであるにもかかわらず、そのじつ無意義である。この事実がグノーシス的な真の神の手招きだと、彼は判断する。ある意味で、彼はここにおいて救済されるわけだ。この道も賞賛されるべきではある。旺盛な真理探究の目。生きることを乗り越え、死をも乗り越えて、真実に至ろうとする人々。彼らの中でも最も偉大な人々は、我々に生きる希望を抱かせる。だが、我々の多くは彼らのようにはなれない。なるつもりもない。諦めたつもりになって諦めない執念深さ。我々はそれを持っているのに持っていないつもりになる。この自分から漂う腐臭に一体誰が気づかないのだろう。
 ついに彼は骨のひび割れから、さらに骨髄を見た!ここにきて彼は初めて生産性を獲得する。先程まで「恋破れて山河あり」は強い思念と世界との関係性-それは前者が後者に全く無頓着であるという関係性である-を言っていた。しかし、それは「思念破れて山河あり」というより純化された形に置きなおされ、やがては「思念破れて身体あり」となる。いままで、世界は常に「私」にとって「意味を与えるべきもの」「ナンセンスであってはいけないもの」であった。そう言う意味での世界はどうしても成り立たせることが出来ない。一つの恋のために世界を滅ぼしても自己を滅ぼしても、そういう風にしようと欲するだけであっても、そうしたことは到底できない。そこまでに世界は我々の思念に無頓着である。自己の骨髄を見るものはこの無頓着さを諦める。有徳な恐妻家として。
 いままで彼にとっては思念こそが世界を支配すべきものであった。その思い込みは裏切られ、実際には思念にたいして世界は無頓着である。無頓着であるにもかかわらず、我々はなにかの証のように身体をもっている。身体は世界が思念に対して持つような無頓着さを持っていて、世界よりは積極的に我々を引きずって行ってくれる。世界の破壊者から自己の破壊者へと進んだ者も自殺の選択をするときに人為的な飛翔が要る。彼らは身体のもつ鷹揚さを暴力によって支配するしかない。砂城が静かに崩れるように消えてゆきたいのに。安らかな自殺は美学に属し、安らかな生活は哲学に属する。
 恋という思念、これを人は精神だと勘違いしている。真空空間で押し出された物体のように、彼は世界に投げ出されたまま転がってゆく。だが何らかの汚れがこの物体に付着するにつれ、この物体はガタガタと落ち着きを無くす。この居心地の悪い物体こそ、我々が精神であると思い込んでいた「思念」に他ならない。この物体こそが「精神である」。
 この「物体である精神」というのはまったくねじれた言い回しであって、「水である火」だとか「あなたである私」とかと同じだ。でも、諸君には私の言わんとするところが分かるのではないか。思念とはまさに自己を見失うことで「精神」としての栄光を勝ちうる。
 「精神」を真実に見て取るためには、我々は手元にあるものに目を向けなければならない。それが身体だ。身体は精神と物体という二項対立における物体ではない。そのなかに何等かの意志が息づいている精神である。この精神は延々と突き進む真空空間の物体などではなく、この物体に付着した汚れを取り除く管理者である。私たち管理者は身体と精神の結合、というよりもむしろ、身体と精神という二項対立を想起させるようなこの根本にあるものであって、身体でも精神でもない。二項対立を越えた身体であり精神である。そう言う意味で「私とは身体である」と言おうが「私とは精神である」と言おうが変わりはあるまい。私は私である。
 「恋破れて山河(世界)あり」という捏造された一節は世界のナンセンスさに気づくことで沸き起こる反抗的な支配欲によって発せられる詩だ。この段階にある人は世界の破壊者となり、次いで自己の破壊者となる。しかし、ここにおいて死ねなかったものはさらに進んで「思念破れて山河(世界)あり」と歌う。ここで人は苦しみの原因を一歩引いて観る。そこではいかにしても我々の思念が世界を支配しえず、世界は我々の思念に無頓着あるという残酷な事実が、居所を得たかたちで定式となる。残酷だと思うのはその人が思念を精神と思い込んでいたからにほかならず、実は精神はむしろ身体と親しいのだった。彼は高次元の「精神」を見て取る。二項対立を超え、思念に引きずられない強固な「自己」を見て取る。この自己は太陽が光の脚を全方位に広げるようにのびやかである。これこそが自己だと気づいたならば、人は思念をして「精神である」「自己である」とは最早いうまい。こうして彼は再び「恋破れて山河あり」と歌う。彼が居心地悪く世界を暮らしていた時と全く同じ詩を、晴れ晴れとして全くの屈託もなく、声もなく歌う。通りがかりの人々は彼が何を歌っているかはわからない。ただ竜のような人がそこにたたずんでいるのを見るだけである。ただその人を見た時に、見る人は世界を思い出す、「私」を思い出す。
酒の快楽を越えた、生きる愉悦を教える者。私はそうした人について、特に恋を関所として通過した場合を説明した次第である。 


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