酢豚の香り

 手段は目的を知らない。ただ、目的を見据えた存在だけが手段を行使して目的に向かいうる。

 泣けないんです。とても可愛がってくれていた祖父のことだから、いなくなったら相当堪えるだろうなと予感していたのに、あくびをして流した涙以外、僕の目から零れ落ちた水分はないんですな。そんなはずはないだろうと思ってソファに座って色々と思いめぐらしてみる。まあ、自意識過剰な僕のこと、クローズアップされるのは「親族の死に涙しない私とは?」という問いになっちまうんだけど、それじゃだめだ。祖父が生前どんなふうにして家を訪ねてきたか、一緒に散歩に行ったときはどうだったか、一緒に行ったログハウス風のパン屋は旨かったな、そういやこのソファで祖父が昼寝したこともあったっけ、寝たきりになってもへそくりから小遣いくれたななどなど。人並みには思いめぐらした。つもり。
 でもねェ、大抵の思い出が収まるべきところに収まってる。ピシッと収まってるから感情がこんがらがるってこともない。感情がこんがらがらないと泣けない。
 昔、中国の爺さんが妻を亡くして泣きわめいていた。友人は彼のことを心配して見舞いに訪れたが、その時には爺さんはすっかり立ち直っていた。いや、立ち直るどころが酒を飲み、大声で歌を歌って上機嫌。友人は呆れて爺さんをたしなめたが、「いや、かかあは行くべきところに行ったまで。俺たちみたいにまだピンピンしている人間が、わざわざわかりもしない死人の不幸せを悲しむこともないだろう。存外あれも向こうで楽しくやってるのかもしれない。」と爺さんは応じた。
 多分、この爺さんはものの道理に従って妻の死を見た。すると慟哭する必要がなくなってしまったんだと思う。なにせ彼の妻は決して人に殺されたわけでもなく、むしろ寿命によって他界したのだ。寿命となればなおさら、それは天の理として生まれてくることと大差ない。この爺さんのすごいところはそれをその通りに、つまり自分に嘘をつかないで受け入れていたところだ。
 僕はこの話を知っていたわけで、それは確かに祖父の死にも動揺しなかった理由の一つかもしれない。ただ、今回の死神もまたとても親切だった。
 彼は急に襲って来たのではなくて、ゆっくりとやってきた。僕らが彼と親しむことが出来るくらいに時間があった。身体は段々とやせ衰えていく一方、祖父の言動には何とも言えない愛嬌が目立ち始め、僕らはそれに好感を持っていた。いい老いぼれぶりだったんだと思う。衰えは死神の足音だけれど、それはほとんど親戚のおじさんがこちらに向かってくるときの足音みたいなものである。
 「いやぁ、ちょっと見まいが遅くなっちまってよぉ、すまねぇ。」といってベッドを囲む家族の輪に加わる親戚のおじさんこと、死神。少なくとも僕には彼を笑って出迎える道理はあっても、恨んだり悲しんだりする理由は見当たらなかった。
 以前、友人と「俺はまだよく知ってる人が死んだことがねぇ。これからそういうののラッシュが始まると思うと怖いね。」なんていう話をして物思いに耽った事もあったけれど、今回に関しては陰鬱な気分はちっともない。
 
 ある日、僕が町に出かけて中華料理屋に入る。メニューを渡されて悩む。その時僕の背後で運ばれてゆく大皿からなんともいえぬいい香りがする。僕はそれを目で追って正体を酢豚だと見極める。酢豚は基本嫌いだけど、個々のはなかなか旨そうだな。例の皿は白髪の老人の目の前に置かれた。素晴らしい白髪!まるで染めたみたいである。僕はその髪のおかげで気づくだろう。それはまごうことなき僕の祖父である。むこうも僕に気づいていつも出迎えてくれる時のように片手をあげて「よぉ!」という。「あらら、こんなところで出くわすとは!」とか何とか云って、僕はメニュー悩みを中断して席を移動する。間違いなく。
 葬式の時祖父の異母弟が来ることになってて、ちょっと不安なんだ。しっかりした道徳のある大叔父さんだから僕のことが軽薄に見えないか心配。その時に僕が泣くかどうかわからない。断言できるのは、この先、未来のどこかのタイミングで、町の中華料理屋で偶然祖父と出会ったら、僕は必ず一緒に飯を喰うだろう、ってことだけだ。
ちょっと味気ないかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?