盲点

 紙の本独特の優雅さが好きで、活字が好きだというだけでは出版業界に行けそうもないということに、今更ながら気が付いた。私が出版業界を志望するにあたって、最も致命的な欠陥は、「書き手が既に死んでいる本を愛好している」という点だ。
 私の愛好する読書は、その本の作者がすでに死んでいて資本主義的な動機とほとんど無縁になってしまっているということがほとんどだった。
サリンジャー、シャンカラ、ショーペンハウアー、キルケゴール、プラトン、荘子、老子、、、。たしかに彼らの書物を今日まで刊行し続けているのはまごうことなき現代人である。サリンジャーの新しい翻訳は村上春樹だし、シャンカラの『ウパデーシャサーハスリー』を翻訳した前田先生もご存命のはずだ。しかし、少なくとも先にあげたような人々の言葉を「こいつは間違いなく売れるぜ!」と思っている人はまずいない。家庭菜園を楽しむ老人が野菜の苗にじょうろで水をやった時のように、狭い範囲で、ひそやかにしみ込んでいくだけである。それだって立派な仕事だけれども、特別推薦枠でもない限り、出版社に行くならば「売れる企画」を考える頭がなくちゃいけない。私の好きな読書は、出版社の欲しがる読書じゃない。
 こう考えた時、私と本との関係は、あくまで喫茶店で読み読まれる関係なのではないかと思えてきた。愛する本を書架に並べることは私の裁量でできるかもしれない。でも、愛される本を生み出すことは私の裁量ではない気がする。愛し方は知っていても愛され方は知らんのだ。おまけに私が愛する本は⑴作者が死んでいて⑵非資本主義的・非営利的ある。その私が⑴作者が生きていて⑵資本主義的・営利的な本の製作に携わるというのはお門違いが過ぎるのではないだろうか。
 夜のビル街に紛れ込んだ小鳥が今日も死んでいる。他人事じゃない。ノコノコ土地勘のないところに出かけて行くのは死にに行くのと同じである。情熱と狡猾さがなければ・・。
 改めて、好き!を仕事にしている人々に、少なくともその道に入る混むことのできた人々に、敬礼し奉る。

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