【散文詩】吾輩の腹の内

 腹の中に一匹の鳥を飼っているというのが吾輩の自慢である。その鳥の名前を「鵬」と名付ける。「ネティ!ネティ!」と鳴く吾輩のこの鳥は、さながらソクラテスにとってのダイモーンだ。とにかく何らかの仕方で私をいたたまれなくして、合図を送る。この鳥が鳴き始めた最初の頃、この内なる声は吾輩によって発せられるものとばかり思っていたのだが、その声と私の認識との間に時間の差が有るということに気が付いた。つまり、鵬は吾輩が友人の某と駅前の喫茶店で話した時に一声「ネティ!」と鳴くのであるが、吾輩が世間にとっている構図を一歩引いてみるタイミングは実にふて寝を決め込んで二時間後だったりするのだ。こうしてこの鳥は吾輩の内側に居候しているということが分かった。
 自分が鳥かごであるということは実に愉快な事ではないか。吾輩が勝者の国と敗者の国とのいずれからも村八分にされて肩を落とすとき、まさに落胆し始めたその時に、かの鳥は美しい澄んだ声で「ネティ!ネティ!」と鳴くのである。
 大学で梵語の授業を取った時、この鳴き声の意味を知った。それは「あれでもない。これでもない。」というのであり、古のインドの聖賢たちがブラフマンに接近する仕方だったのである。どおりであの声がうららかな春の鶯の声よりも澄み渡っていたわけだ。鵬は宇宙を吹き渡る風によって生きている。吾輩は汚れきっていなかった。吾輩が汚れているという認識こそが汚れきった臆見であったとは!
 例の鳴き声のするときと言うのは大抵外部に原因がある。そしてその原因で触れたことで起こる炎症が吾輩の気分を多かれ少なかれ害する。そういう意味で原因は内在的でもあり外在的でもある。というよりも原因は触れ合うということの中にある。毎度毎度の弾劾裁判において我が聡明なる検察官は我が友人や知人たちに対する有罪判決を求めた。その判決が何らの実刑を課する効力を持たないと知りつつも連中は懸命に彼らの有罪を立証しようとするのだ。この親切を吾輩は微笑みながらやめさせよう。他者と触れ合うことによって生じる炎症。これはまさしく吾輩の領分である。
 しかし、そうした自己というのは畢竟大勢の中に頽落的に存在する希薄な自己ではないかという危惧が生じてくる。吾輩は自我を持った泥水の一立方ミリメートルなのか??
 馬鹿馬鹿しい危惧だと思う。吾輩の腹では相変わらず「ネティ!ネティ!」という声が響いている。そしてあんた方の腹の中でも同じ声が響く時があるじゃないか。
 私は行きつ戻りつする。行くときも戻る時も私は私であり、行って戻ってくるということが私ということなのだ。本質と思っている事態に新たに異質なものが加わる。そうしたとき、私とは終わりなき数列であることに思いをはせよ。繰り返しがどこから始まるのかは誰にもわからず、一定の周期で舞い戻るという確信がむざむざと裏切られることすらあるのだ。
  
 都内某所の喫茶店にて吾輩は君と地下の喫茶店に入った。中のつくりは大変に素晴らしく、聖堂のような荘厳さがあった。たしかに翼廊に当たる空間が手前に来てしまっていたが、祭壇らしきものはちゃんとつきあたりにあって、緑色のよく映えるステンドグラスが後ろから光を当てられて一際目を惹く。吾輩はそのステンドグラスを気に入ってその正面左手側に席を取った。
 君はこうした光景を如何に描き出すのだろう。吾輩にはこれが精いっぱいであるが、君にはそうではない。心によって色付けて、心の赴くままに、君の「美学」によってこの空間は色付けられるに違いない。幻術師たる君は実にそうやって現実をフィクションに置き換える。現実は死に、フィクションによる傀儡が始まる。
 物語るということの恐ろしさについて、吾輩は毎度意見を具申しようとして一寸振る舞いがおかしくなる。鵬が盛んに鳴くせいだ。「ネティ!ネティ!」
 「煙草の吸えない店にはよういかん。最近はねこれが無いとダメなんだよ。段々寒くなってきたろ。夏はまだいい。冬にはこいつが欠かせないんだな。」と君は笑う。心なしかその態度は尊大である。一仕事終えたサラリーマンのような君を見ているとこの席はおままごとをするために設けたものだったかと思う。学生はなるほどこんなものなのか。
 「自分で墓場を手繰り寄せるようなもんだぞ。Bの野郎は狂ったようにロングピースばかり吸っている。肺にためてクラつくのが良いんだと。」
 「あはは。僕にはわかるね。何か創作するってなるとギリシア詩人よろしく神がかりになる必要がある。シャーマンの儀式でも煙草は使うというじゃないか。」
 神聖なる儀式に君は参加しているのだ。その座の一角を占めているという自尊心が燃えている。
 しかし、なんでこうも君の物言いが吾輩の心持を悪くするのか。受動喫煙が喜ばしくないのと同様に、君の口からあふれ出る白い煙はちっとも喜ばしくない。この白煙は人の口から魂を奪い去りグノーシス的真理の世界へ私を誘う。
 「最近例の背の高い娘とはどうなんだ?君のお気に入りのさ。」
 「ああ、あの子ね。相変わらずの横恋慕だよ。僕って依存しいだろ。あの子にもそうだったんだ。このごろやっと一人でいることに慣れてきたけどさ、僕に親身になってここまで変えてくれたのは彼女の功績なんだ。それで惚れちゃったね。気づいたら。」
 吾輩の悩みは君に比較して希薄であろう。恋に恋していることとある人に恋していることとは雲泥の差だ。吾輩は捕らぬ狸の皮算用。君は実存的な苦難。君はこともなげに語るのだが、その胸のツキツキする痛みは吾輩も知っている。
 「でも僕の好きになった娘は僕のことを友達としてしか見ない。この見てくれのせいもあるだろうけれど。何とも苦しい限りだけれど、そういうジメジメしたものが栄養なんだ。」
 フン。吾輩は湿っぽいのは大嫌いだ。
 「僕はコケだ。苔の生すまで、のコケ。普通の人はその湿気にやられちまう。けれども僕らにはそれが必要で、毒が解毒剤に、解毒剤が毒になるんだ。」
 「そんなことってあるかしら。なにか勘違いしているんじゃないか?お前のものの見方にコケが生えてるんじゃないの?」と、吾輩はしおらしく言った。鵬のやつは盛んに鳴いている。
 「君は自らそうなりたくて、それに憧れてそういう振舞いをするのか?それとも安楽を求めながらどうしても引力に逆らえないのか?」
 君は口からキャメルの煙を吐き出した。その目は遠くを見ている。これは陶酔であろうか。それとも吾輩の方がおままごとを始めてしまったので、その子供っぽい遊びの合間の意図休みだったのか。
 「僕はむしろ憧れているんだ。やりたくてそうしている。なけなしのアイデンティティなんだもの。」と君は白状した。
 何とも人聞きの悪い、と君は顔をしかめるだろう。あるいは腹を割って話したのにこの仕打ちか、と落胆するかもしれない。ただ、吾輩は吾輩の可愛い鵬を撫でてやりたい気持ちだ。
 いいかね、君の崇拝するあの着物の男はいかなる意味において偉大なのかということに思いを巡らすべきなんだ。あれは最高傑作のホルマリン漬けだ。彼の文才はそのことでのみ正当に評価されうる。
 「ははあ、俺の象徴はこいつと同じように下腹部にすっかり収まっている。ごらんよ、肋骨の辺りを。あそこはカメの甲羅のようになっているんだねぇ。」
 それだけではないか。
  
 橋から転落する事、轢死体になること。そういうことを色づけるな。ただ打ちひしがれただけなのだ。ただ切り刻まれただけなのだ。
 吾輩は吾輩の鵬を見つけた。そして吾輩の敵をも。彼方の地平線にすら野生の色づける者たちに居場所を与えぬこと。彼らを徹底して奴隷化し、吾輩の意のままに操ること。それこそが至上命題である。
 大いなる力によって捻じ曲げられる一部の人々。
 「君だって僕に近い立場のはずだよ。最近は達者にやっているようだけれども、血は争えない。」
 吾輩を君のカテゴリーに組み入れるな。鵬は「ネティ!」と鳴く。ひときわ高く、ひときわ大きく。「これでもない!」
 「そうか、君はもう違うのだな。君に僕のような困難はない。」
 吾輩を君とは異なるカテゴリーに組み入れるな。鵬は「ネティ!」と鳴く。ひときわ高く、ひときわ大きく。「あれでもない!」
 吾輩は色づけるもの、賢しい知恵で人を区分けし焼き印を押すものを許さない。地の果てまでも彼らを迫害しよう。地の果てまでも追いかけて、そこに純文学の精霊が立ったならば、吾輩は初めて翻意しよう。
 吾輩は君を侮辱した。しかし、そういう道をたどって君とその仲間たちの事業に参与しよう。そのために微力を尽くし、君と肩を並べよう。
これが吾輩の腹の内。君の創作と吾輩の問いかけに実りあらんことを。

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