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【私見】信仰や国民国家はこれからどうなるのか?

世界中から多くの人命が失われた世界第二次大戦からこれだけ時間が経っても、依然世界から理不尽に信仰や国民国家を背景として暴力で日常が奪われる状況が続いている。
ここで疑問なのが、じゃあ信仰や国民国家は全くなくなる、ないし統一すればいいのか?ということになるが、それは現実的でないし、人間の本質に反している。
人間が怒りを感じれば楽しさを感じるのが、他人との差異にあるのであり、全て同じになってしまえば色彩の欠く退屈な世界になるだろう。
また、もっと遡るとネアンデルタールとホモサピエンスの命運を分けたのは、ホモサピエンスのほうが変化を前向き受け入れた、ようはイノベーションに積極的だった、という話もあり、人類としての種の存続を考えても、差異を大切にするのは重要なことである。
ではどうすればよいか?ということだが、信仰や国民国家の前に、人間が理性でたどり着いた到達点、つまり人間として遍く人は生まれ持って自身の生命、自由、財産を持つ権利(自然権)を認識する必要がある。ルソーが唱えた社会契約論、即ち自然権を守るために人々は社会契約を交わす、即ち個人の利益を超克した一般意志に基づき社会を形成する、としたわけである。
謂わば、信仰や国民国家は特定の集団における一般意志を宗教の教えや民族の歴史といった中から形成している、と言えるのだが、この一般意志の範囲を人類に敷衍できるか、ということが問われている。
といいつつも、中長期の視点に立てば、自然権と表裏一体である民主主義(一般意志を体現するための仕組み)の概念が色々言われつつも世界に広がってきたように、徐々に一般意志の範囲は世界全体に広がるだろう。なぜなら、それが人類にとって相対的に有用なものだから。
つまり、中長期的には、信仰や国民国家は残りつつも、さらに上層の概念として一般意志(と呼称するは分からないが)、つまり人類共通の利益を大切にするようにシフトするだろう。その中で個別の利益に固執することで破滅に向かう集団も出てくるだろう。
過度期に生きる人々はどうすればよいか?といえば、そのような状況にいることをメタ認知し、自身が所属する集団が破滅に向かわないよう気をつける、ということではないか。

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