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【巨人の肩に立つ】人類の知的遺産・民主主義と唯識論


民主主義とは何か?


人類が目指すべき社会とは何か?というと、全ての人の人権が尊重される社会であり、これに関して異論のある人はいないと思う。
そして、社会の制度の中で、そのような社会を作るために人類が辿り着いた最善の政治思想が民主主義である。
民主主義の社会においては、人権(生存権、財産権、自由権)を守るため、人々が自分の意思で政治を行う。
自由権とは人々が自分の意思で政治を行う権利。
人々が自分の意思で政治(人権を守る行い)を行わない限り、それは人々が自由であるとはいえない。なぜなら、特定の利害を持った誰かによる政治には自分の意思が反映されておらず、自分の人権が阻害されているから。
ゆえに、民主主義とは上記の観点から、多数決ではありえない。なぜなら、多数決である以上、多数を占める特定の利害集団の利益を代表することになるため。
ではどうすればいいか、というと、一人一人の利害が調整されたうえでの意思(一般意思)に基づき決定を行う必要がある。
民主主義以外の政治の在り方には、特定のリーダーが意思決定を行う独裁制、少数の人間により意思決定を行う寡頭制があり得るが、どちらも上記の観点から自由権を損なっていると言える。
つまり、民主主義が人権を守るために最善の政治体制なのだが、大元の政治の元になる我々の意思、一般意思というのは、1人1人の利害を調整した意思、という正解がないものであり、言わば永遠に未完の政治思想である。ゆえに、民主主義国家においても、政治家は、分かりやすい意思である特定集団の便益を図ろうとしがち。しかし、本来政治家には目には見えない一般意思を求め続ける姿勢こそが必要なのだと思うし、そうした思慮深さのある政治家を有権者は選ばなければならない。

唯識論とは何か?


民主主義の元には、上記の通り人権を守る、という思想がある。一方で、人権に拘るということは、人権を保有する個人、つまり自分という概念に拘ることである。また、自分に拘るということは、自分に関連するモノに拘るということである。
自分とモノへの拘りが、あらゆる苦しみの元になる。
苦しみを仏教的に分類すると、生苦(この世に生まれてきた苦しみ)、老苦(老いへの苦しみ)、病苦(病を得る苦しみ)、死苦(死の苦しみ)、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(会いたくない者と会う苦しみ)、求不得苦(得たいものを得られない苦しみ)、五陰盛苦(自分の心と身体が思うようにならない苦しみ)に分けられる。
人生で直面する苦しみは、このいずれかに分類されるところ、これらの苦しみの元になっているのが、自分への拘り(我執)、モノへの拘り(法執)である。
唯識論は、この世に自分、モノというものは、そもそも存在しない、という議論を展開する。
人が認識する自分やモノ、というものは、心の中に浮かんだものに言葉を付けた(分別する)結果生まれたもの。
つまり、人が認識する自分やモノとは、自分の心の中にしか存在しないものと言え、自分の心の外に本当に言葉で付けたように、分別したように存在するかは、人がこのような認識の手順を辿る以上、不可能なのである。
仏教の悟りとは、こうした思想を突き詰めることで、自分やモノに全く心を動かされない不動心を目指すわけであるが、俗世に生きる人はそのような心持ちになることは日々の環境からの刺激を受ける中では不可能である。
では、どうすればよいのか?というと、自分とモノへの執着は、苦しみだけ生むわけではなく、快を生み出す原因でもある。自分が快適に生きられる程度の執着にするべきで、自分を苦しむまで拘ることを辞めればよい、ということになる。ただその塩梅が難しいのであるが、唯識論を知っているのと知らないのでは大きな違いが生まれるはず。

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