自分の身体のヤンキー性と向き合ってみる

私の本業のヒップホップについての批評においては、自らの身体性を消去して書いてきた。それがヒップホップという文化への礼節だと考えたし、また批評のスタイルとしてもそのような批評を好むからでもある。それは今後も基本的には変わらないと思う。しかし、本業の批評は頭でっかちにゴリゴリと書いていくとして(批評は誰が一番頭いいかを決める実力勝負の側面があると考えていて、そこが好きである)、別の方向性の文章を書いてなにが悪いかと、今さらながらに思い当たった。そのような、一度身につけた規範意識を、今度は解きほぐしていく必要を感じている。完成度低く、緩く書くことを自分に許したいと思うようになった。たしかに、本業のゴリゴリ批評でまだ単著も出ておらず、時期尚早だとも言われるかもしれないが、まあ別に勝手に放っておいても私はゴリゴリ批評を書く人間だし、そこはそんなに心配してくれなくて大丈夫だと言いたい。というか、本業の方にもいいフィードバックがあるような予感がある。

私は最近、身体や性や生という問題に再び突き当たっている。もちろんそれは誰もがそうなのだから昔からそうだったわけであって、だから身体を意識できるようになる段階にまで来た、という言い方の方が正しいか。ここではそうしたことについて書いてみたいと思う。そもそもの前提として、身体やなんだといったことを書くのは、それが「トラブル」を起こしているからである。そうでないと、普通は意識化されないだろう。だから、人にとってありふれたどうでもよい自分語りをするだろうけど、単に私はこうだったということを確認したいから書くのだ。そういう風に確認しないと、これからどうにも病んでいってしまいそうな気がする。

たとえば歴史的に、批評はもともと自分語りの側面があって、それに対する反発から自分語りを禁じるスタイルが現れたと、私は見ている。私はそうした批評に影響を受けてきたし、自分語りこそマッチョだ、というような前提もなんとなくあったように思う。しかし、反自分語り派の批評家が、裏であまりにだらしないエゴを垂れ流していた、というような事件があった。それは、表で自意識を抑圧することで、別の場所でそれが最悪の形で回帰したのだ、とさしあたり分析できると思う。私もまた、誰もがそうであるように危うい自意識を抱えているわけで、それなら文章にして表に出す方が健康なのではないかと、安直に思い至り、試しにやってみようと思ったのである。

あと、最近、私の『文学+web版』での連載で、フェミニズムと「通俗性」という話をした。通俗的なことを切り落とすのは、どうなのか、という議論である。通俗性とは、支配的な言説から排除される「つぶやき」であるが、それをフェミニズムは取りこぼすべきではない、というような。私ははじめ、それを単に理論的な要請から読んだ。それと対になる前衛性を考えるために、通俗性を扱った。しかし、通俗性ともっと真剣に向き合うべきだと思うようになった。私の通俗性を言葉にして、それと理論的なことを結ぶことが必要なのではないかと思い至った。私は理論好きだが、実はそこからこぼれ落ちる通俗性、身体性との緊張関係においてこそ、真に理論の価値があると気づき始めている。

千葉雅也がnoteに「ヤンキー哲学」という文章を書いている。私はつねづね、千葉の著作やツイートなどを見て、身体感覚としてとても近いものを持っていると思っていた。彼のツイートのほとんどに心から「それな!」と思う。もちろん違いもあって、しかし奇妙なズレ方をしていて、それがまた面白いと勝手に思ったりもしている。たとえば向こうはジャズでこっちはヒップホップ、向こうがプロレスなら私はMMAが好きなのだ。だからやはり、どこか近いものがあるのだと確信している。私は、千葉のレベルでフーコーや精神分析やクィア理論を読めていないが、しかし最低限、千葉の言う「ヤンキー」性を共有してはいると思う。私の身体を考えるに当たって、この「ヤンキー」性という概念は不可欠のものである。また、鳥羽和久の文章も、千葉と同様にショッキングだった。その二つが主に、私にこのような文章を書くように触発した。

私がヤンキー性を持っているのは、単に地方出身だからである。千葉は栃木県らしいが、私は福岡県の郊外で育った(ネットで、ヤクザの多い町とネタにされているようなところ)。千葉のヤンキー性は主に家庭、家系から受け継いでいると言っているが、私の場合は同級生であった。普通の公立の中学に通ったが、私の代には男女合わせて10名弱の「本物の」ヤンキーたちがいて、短ランやボンタン(「日本男児」とか、あまりにベタな刺繍が入っていた)で学校に来ていた。駄菓子屋にパシらされる奴がいたり、万引きしてきた洋服を買わされた奴や、カンパ(という名のカツアゲ)に巻き込まれた奴がいたり、これもまたベタな感じである。私は幸いさほど直接の被害にはあわず(こっちは何も楽しくない肩パン対決に参加させられるとか、「よお!」とケツを蹴られるとか、そんな程度)、もちろん威圧的には感じていたけれど、話せば根は良く面白いと分かっていたし、なにより彼らが真っ向から教師に反抗するのを痛快に眺めていた記憶がある。


さて、私は高校生まではずっと、勉強の成績が良かった。努力したのでなく、たまたまであり、私が望んだわけでもなかった。それにも関わらず、大人は私を優等生、将来のエリート扱いしようとしてきた。そのことに私は小学生の頃から全力で抵抗した。私にとって偏差値的なものは、これまたたまたま成績が悪いだけで、それ以外はとびきり面白くてクレバーで良い奴らである周りの友人との間を引き裂こうとする、大人の画策や陰謀に思われた。私と友人たちは一緒なのに、なぜ分け隔てようとするのだと不満だった。私は教師が問題視するような奴らと遊ぶのが好きだったので、小学校の教師から中学受験を薦められたが、即座に拒否したことを覚えている。私は、なにがあったわけでもなく直感的に優等生が大嫌いで、そういう奴らの集まりに放り込まれるのはご免だった。そのときの決断は、結局は大学からドロップアウトしてしまう私の身体性と、続いているものだと思う。


私はもちろんヤンキーではないけれど(千葉が言うように、結局は私も「向こう側」には行けないインテリ的なこわばった、ダサい身体なのだ)、しかし東京で出会った友人らに、私が高校時代にどんなだったかを話すと、それはヤンキーではないのかと言われる(が、もちろん違う)。これが環境の違いか、などと思ったりした。また、育ちがいいとか、文化資本とかいうのはこういう人らのことを言うのだなと、羨ましくもあり、少し可哀想でもある。とはいえたしかに、私もヤンキーを真似るようにはなっていった。オリジナルヤンキーから疎外された者に、ヤンキー性が宿るという弁証法、的な。とりわけ、偏差値の高いとされる高校(とは言ってもせいぜい公立の、である)に入ってからは、周囲や教師らへの強烈な反発心がそうさせた。私は自分の高校がとにかく大嫌いで、偏差値の低い学校に通っている友人たちとつるんで毎晩遅くまで遊び呆けるようになった。彼らの方がギャグセンが高く、面白い遊びをたくさん知っていた。毎日昼から登校し、友人から呼び出しが入れば教師に黙ってこそっと学校を抜け出し、二日酔いで朝学校に来たり、といった感じであった(唯一我が母校を評価するとすれば、そうした私を一切処分しなかったことのみである。非行の数々は教師たちには実はバレバレであったが、見逃してくれていたと後日聞かされた。とはいえそもそもの規則が理不尽なのだから、まあ見逃して当然でもある)。私は高校入試の時点では二番目に点数がよかったそうなのだが(なんか集会で無理やりスピーチをさせられた記憶がある)、期待の新入生だったはずのお前がここまで問題児になるとは、と教師からは嫌みを言われたものだ。成績が下手に悪くないためにそんなにきつく説教はできないし、ルールの裏を絶妙にかいてくるので、たしかに教師からしたら最も厄介で忌み嫌いたくなるような存在だったはずだ。私の友人たちは、面談で教師から「あいつとは仲良くするな」とまで言われたりもしたそうである。なんと汚い大人たちであることか。むろん私は、上等だと思った。私はむしろそれを望んでいたのだと、内心自らの成功を喜んだ。


もちろん、色んな、ここでは書けないようなというか、書くことがはばかられるようなことはたくさんしてきた。具体的には書かないけれど、だけどルールやブルジョア道徳への反発というのは、当時言語化はできていなかったにせよ、感覚で完璧に理解していた。単に、面白いからという理由でそういう悪い行為をすることもあった。リスクと無意味さのバランスが面白い、という感覚。だけど、面白いこと、笑えることそれ自体が抵抗のひとつの形でもあった。私はそれを松本人志から学んだと思う。そして私たちはそうした感覚を、教師に反抗するのに利用した。教師の権威をいかにコケにするか、偉そうにしているやつ、いじられキャラじゃない意外性のあるやつほど、ネタにできたときの面白さは倍増である。色々手の込んだことをやったので、もしそれが身近な環境にいたら、私は現代アートの道に喜んで進んでいたかもしれないな、などと、今なら思う。


たとえば、外山恒一は学生の頃から反管理教育運動をしていたというので、とても尊敬する。人によく話す、次のような軽い笑い話がある。外山も福岡県出身だが、外山は、私の実家から程近い某高校にもビラ撒きに通っていたと、どこかで言っていた。その学校は私たちにとって、可愛い女子生徒が多いと評判の場所で、私は一時期毎日友人たちとその学校横の駅のロータリーに放課後タムロしていたのだった。同じ場所で同じ年頃のときにやっていたのが、片や革命的な行為であるビラ撒きと、片やナンパもどきである。このなんとも情けない対比が、しかし時代の変化というものではないだろうか。千葉が言うように、ヤンキー性とは脱政治化の時代における政治の残滓のようなものだからである。私はそのことを身をもって生きていたように思うのだ。禁止されていたバイトを始め、コンビニの駐車場に溜まり、パチンコに通い、ゲーセンやファミレスや居酒屋で騒ぎ、次々に面白い奴らや新しい女子たちに出会い……といった、見たことのない世界を見る日々は、私にとっては真面目に、「革命的」とは言い過ぎでも、少なくともとても解放的だったのだ。

だけれど、もちろんそれは私の妄想に過ぎなかったのかもしれない。刺激的な遊びを私に教えてくれた友人たちはいつしか、従順に働きだし、家庭を築くようになった。「俺らももう大人ばい」などと言う。校則のことなど一度たりとも気にしたことのなかったタフな奴らがいまや、コロナを気にして飲みにも行けなくなった。彼らを責めるつもりはまったくないし、会えば今だって昔のように話せるわけで、それはいまだに私の人生に必要な時間である。しかしながら、私はなお、あの解放的な日々の感覚が忘れられない。そのことにだけは、真摯であろうと思っている。


この、子供時代の反抗心を忘れないことの大切さというのは、鳥羽和久の文章が教えてくれたことである。鳥羽の文章は、ロック的、ユースカルチャー的な反抗のかたちを、もっともうまく、かつ力強く肯定するものなのではないだろうか(私の高校時代が、ロックンロールともにあったからそう思うだけかもしれないが)。誰もが子供のときには持っていたヤンキー性を掘り起こしていると思う。だから私は鳥羽の文章をたくさん、没入しながら読んだ(自分の生に直撃してくるような、そんなことは本当に久しぶりの体験だった)。連載「十代を生き延びる」第三回には、こうある。「みんなの目には、大人は自立しているし、自信を持っているように見えているかもしれません。でも、騙されてはいけませんよ。たいていの大人は子どもの前でかっこつけています。虚勢を張っています。実際は社会に適応する中で失ったものを知っているから、そんな自分を嘆いてばかりいるんです」。私は驚いた。あんなに偉そうで自信満々に私たちを抑圧していた大人たちが、実はなんの正当性も持っておらず、ルサンチマンにまみれたなんとも惨めな存在だったわけだからである(こういうところが、鳥羽はニーチェ的だと思う)。そして、子供の頃の私たちは直感的にそれを見抜いていたわけで、やはり正しかったのだ。しかしみな、それを忘れていく。実際、私の友人たちのなかには、いまや会社で中間管理職的なポジションに就きつつあり、後輩には厳しく当たることが必要なのだなどと、持論を吐くような大人になってしまった者もいる。しかし、彼らもかつては偉大な反抗者であったことを、私はこの目で見てきた。


ところで、私は高校卒業後に上京して大学に入った。多くの地方出身者同様、アイデンティティの危機のようなものを体験した。たとえば、上京の寂しさで「メンヘラ」「ヤリマン」化する女子の友人たちを隣で見ていて、それは誰もが通るようなあるあるな光景なわけだが、私も女性に生まれていたら絶対そうなっていただろうなと思う。大学にはまったく馴染めなかったからだ。むろんメンヘラというのは基本寂しいからそうなるわけだ。彼女らの目に写った「ヤリチン」男は、どこか解放的で英雄的なところがあったに違いないと想像する。たしかに大抵のケースでは、後にそいつの化けの皮が剥げて、彼女らはその「ヤリチン」を怨むことになるわけだが。それでも私は「ヤリチン」をことごとく嫌悪する人たちの感覚は正直分からない。私も彼女らと同様に、育ちがよく、行儀もよく、適度に利口な同級生のプチブル的な雰囲気が我慢ならなかった。そうした体験は、私は男とではなく、女子たちと共有したように思う。私たちは、ベロベロに酔いながら、大学のつまらない奴らを罵倒し、地元の「イツメン」が最高なのだと言い合った。彼女らは、あの女は性格が悪い、あいつは清楚ぶってるなどと酔いに任せて言っていた。こういうブチマケ感は、男と共有したことはあまりない気がする。ともあれ、こうした、ばか騒ぎする田舎者の寂しいイキリ大学生的な光景をバカにするような奴らには、自らの「特権」を自覚していただきたいと、言い返してみたい気持ちだ。


ライターの友人に、インテリは陽キャへのルサンチマンが物凄いという話をされたことがある。私は同業の友人が少ないが、その彼は知り合いが多い人なので、色々な人と話して、そう感じたそうだ。基本彼ら彼女らは高校まではスクールカースト的に抑圧されていて、そのことへの恨みがすごいというのだ。それは、男性であれ女性であれ、そうなのだという。私はそのような発想すら頭になかったので、いささか驚いたことを覚えている。そんなしょうもない(とそのときとっさに私は感じた)ことが原動力となりうるのか、と。韻踏み夫さんはインテリのなかでは特殊な部類ですよ、とも言われた。

次のような思い出がある。高校に入学して早々の時期に、友人と昼休みに、ひとけのない開け放しの渡り廊下でタバコを吸って駄弁っていた。すると、気づいたら掃除の時間が来ていて、当番の先輩生徒たちが入ってこようとして、あわててタバコを隠したということがあった。もちろんタバコの現物を見られてはいない。しかし、そのきわめて真面目そうな先輩たち(男女両方いた)は、タバコの臭いがしたというので教師たちにチクっており、私たちは後日呼び出された(証拠がないので無事放免された)。そのとき私は心底驚き、憤った。ヤンキー的校風だった中学の先輩なら、そんなことは死んでもしなかった。先輩が後輩を売るなんて。しかも話したことすらない後輩を、である。たしかに、私たちも私たちで、校内でというのは多少攻め過ぎたかもしれない。しかし、たかがタバコごときで、そのにおいだけで、スニッチするというようなことがありえるのか。私たちが彼らに何をしたというのか。そんなことをして彼らになんの得があるというのか。しかしいま考えてみると、それが彼らのルサンチマンだったことがわかる。私たちは入学してすぐに教師や先輩に目をつけられていたから、色々因縁をつけられたりもした。それ以外に説明がつかないと思う。

そういう陰キャ的に学校生活を過ごしたひとは、校則や規則と体をはって戦ったことがあるのだろうか。従順にしているか、従順さを装って無難に過ごしているのではないかと、当時の私は歯がゆかった。もっとみんなで楽しくなるようにしようぜと叫びたかった(そこでちゃんとした政治に行き着かなかったのが私の限界ではある)。たしかに陽キャがときに教室で抑圧的にはたらくことはあるだろうが、彼らは理不尽な規則とリスクをかけて戦った存在でもある。陽キャへのルサンチマンに溺れるひとは、そういう構造を見落としていると思う。楽しそうにしているが、楽しそうにするために色々戦っているのだと、私は知っている。だから、陽キャを一方的に悪のように語るノリにも付いていけない。当たり前の話、陽キャも悩みを抱えていて抑圧を受けている一人の人間だという事実が軽視されているかに見える。私は彼らを間近で見てきた。彼らは間違いなく戦っていた。


インテリ的な喋り方というのがある。浅田彰のように喋りたい、とは誰もが思ったことがあるはずだ。そういう喋り方を本来私もプロの端くれである以上身につけるべきなのだが、身体が拒絶して、努力はしてみたけれど結局身に付かなかった。ライターの友人には、「頭いいことを言っているけど、喋り方がそこらの兄ちゃんみたいだ」と言われたことがある。あるいは別の人にはZOOM越しに「タバコの吸い方がやばい」などと軽く引かれたりもして、まあともかくそういう身体性を私も自覚している。だから、インテリ的な身体にも十分になりきれていないわけなのだ。他方、私はいま地元に戻っていて、再びマイルドヤンキー的なコミュニティの隅っこに所属してもいる。しかし、そうするにはもはや私はインテリ化されすぎていて、時にふと彼らとの距離が空いてしまったと感じることがある。昔ならとっさに一笑い取れていたところで、なんだか身体が反応しない時がある。「ノリ」のズレ。インテリにもヤンキーにもなれないと再確認するとき、私は自分の身体が「トラブル」を起こしていると感じる。このことは、まさに千葉が『勉強の哲学』で書いていたことである。三段階モデルで、原初のヤンキー性から、「勉強」を介して「キモく」なる段階、そして最後に「メタヤンキー」として戻ってくる。私の身体はいま、第二段階から第三段階への移行過程にあると言える。しかしそこには痛みが伴っている。

私は批評をやっていて、たしかにインテリにはなったが、そもそも、ガリ勉にはなりたくない。遊ぶことを大事にしたい。吉田拓郎(彼もまた偉大なヤンキー性の体現者だと私は思う)に「いいかげんなやつらと口をあわせておれは歩いていたい/いいかげんなやつらも口をあわせておれと歩くだろう」とあり、私もそうやって生きていたい。しかし同時に、遊んでいながら、ガリ勉よりも常に頭がよくなくてはならない。そういう感じが私の理想で、そのことはスガや柄谷や蓮實や浅田から学んだ。上京後、見習うべき大人も見いだせなかったが、彼らがそのヒントをくれた。彼らには、ヤンキー性と知性が同時に可能なのだと教えられ、そのことは私にとって世界がひっくり返るくらい衝撃的なことだったのだ。大人はバカしかいないと思っていた私は、はじめて自分が誰かに敗北したような気持ちを覚えて、世界の広さを知れて本当に嬉しかったことを覚えている。

ヤンキー性は、千葉も言うように、政治とも関わる。私はやはり、マルコムXやブラックパンサー党に多くを学んだ。マルコムは、おれは大学に呼ばれて喋ることもできれば、他の黒人指導者と違ってフッドの人々と同じノリで話すこともできると自慢げに言っている。もともと不良で、次に刑務所で勉強をして、最後に政治に戻って大衆ともインテリとも話し合うようになったマルコムこそ、千葉の言う「勉強の哲学」の最良の体現者なのではないかと思う。パンサーもまた、フッドの行儀の悪い言葉をあえて用いながら、同時にとんでもないインテリたちが指導部にいた。彼らは率先してギャングを引き入れたりもしていて、「近所のブラザーたちbrothers on the block」が革命の前衛だと考えていた。ヤンキー的な革命を目指していたと言える。彼らはメディアに、「政治化したギャング」と攻撃されたが、私からしてみれば、それは褒め言葉でしかないように思われる。


こうして見てみると、いかにヤンキー的なものが、私のあらゆることを規定しているかが分かる(今回はヒップホップについては書かなかったけれど、言うまでもあるまい)。こうしたことを、最近になってようやく言葉で説明できるようになってきた、もちろんまだまだ拙いけれど。でも、案外スラスラとは書けて、この程度の水準の文章でいいんならいくらでも書けるんじゃないか、と思った。実際、この程度かそれ以下の水準の文章でギャラをもらっているライターなんて山ほどいて、私はそれを実力不足のフェイク野郎だなあなどと思っていたけれど、そういう風に思ってしまう私の規範意識が強すぎるだけだし、そもそも嫉妬みたいだからやめよう。ともかく、これからも思い立ったらたまに書いていきたい。書き始めた頃のように、恥を忍んでノリでパッと書いちゃう、ということがいまの私には必要であると思う。

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