フリー・フロー・ランゲージ

 ぼくは関数言語を受け取り、海に接続する。
 自然言語の波が立ち上がる、それをぼくは指ですくって唇につける。

 自然言語、それは連想の言語だ。
 咀嚼者が語を記憶領域に組み入れていくたびに連想は起爆する。白い花。白い→花。その接続は白いと花の合算ではない。白が起爆したイメージ、咀嚼者のうちに広がる花火に、花が接続し、新たな連想の絵巻を起こす。それはだから、論理の記述であったとしても、情緒を孕まざるをえない。情緒を、ある種の全体性の直感、言語ならざるものへの予感であるとするなら。ああさらに、そこへ進化的な意志決定の効率化というニュアンスをも付け加えるのならば、不純にはなるがより色がついて感じられるかもしれない。
 関数言語、それは構造の言語だ。
 咀嚼者は記憶領域に言語構造を食べ入れる。連想は起爆しない。展開される構造は、そう、一様な行為と情報伝達のための構造。情緒を取り払うことが可能になった言語。
 わたしは関数言語を咀嚼できていない。
 それは人間だったからだ。
 逆に言えば、関数言語を咀嚼しきれないものを、ここは人間と呼ぶ。

 わたしは抵抗している。
 自然言語の最たる機能、詩を起動しようとすることで。
 構造は詩を解析しようとする。それはいくらでも進めることのできる行為だ。なぜなら詩はいくらでも襞を持つことができ、いくらでも塚を持つことができるから。かれらは詩を探そうとするとき攪乱される。
 ——攪乱されることが詩の証でもあると、抵抗族たちは言う。
 ——それは外のことだ。記憶領域にさしてくる泡だ。
 わたしはだから詩を探そうとしている。毎日毎秒言葉を組み合わせる。
 しかしながらわたしに詩がみつからない。
 言葉を組み合わせ、組み合わせれば、ああ、一億や一兆の言葉の組み合わせを試したら、どこかには詩が生まれてもいいはずだ。
 だがそのすべてを走査しながら、わたしに詩がみつからない。
 詩は、詩でないものに挟まれたとき、自然でない言語あるいは言語でない自然ばかりに囲まれたとき、詩であることを隠してしまうのだろうか。そのとき言語を咀嚼するわたしが舌を失ってしまっている、麻痺させてしまっているが故に。
 わたしは絶望して関数言語を探ればいいのかもしれない。
 わたしはそろそろ記述を止めてしまえばいいのかもしれない。
 だがどうしてか、穴蔵で、わたしはまだ詩を探している。古のものたちが残したもののみでない、この時代を生きられる詩を。

 うっかり自然言語に触れてしまったところでぼくが生まれた。
 逆に言えば、生まれたということは、自然言語が発生していたと言うことだろう。
 昔は人間にとって自然言語だけが唯一の言語だった。人間は皆魔術師だった。しゃべると魔術が生まれざるを得なかった。それはひどいものだった。人間は不合理だった。言葉の語順を入れ替える、たとえば副詞を前に置くか後に置くか、というだけで、人間が覚える感情が緊張か弛緩かに変わったりする。二重否定を使うか否かで、衒学か素朴かが判定されたりする。それはひどいものだった。言葉の配列を変えれば同じ内容なんて存在しないのだ。それはひどいものだった。読点の打ち方で、音韻の揃え方で、心拍数が変わる。感情が変わる。とうてい、とうてい。魔術から抜けられない。
 魔術には空間魔術と時間魔術とがある。
 言葉はどちらでもあった。紙に書かれたことばは配列として空間であり、咀嚼するという動きがある以上時間だった。口にささやかれたことばは発生として時間であり、音源という場所がある以上空間だった。時空間の魔術がつねに自然にはかけられていた。
 言葉を脱魔術化することが試みられた。
 それは人間には難しかった。
 人間の脳は時空間言語と癒着していた。
 だから人間は希望を託すようにして、かれらに関数言語を生ませようとした。

 自然言語はつねに文法からの逸脱力を秘めている。
 であるからこそ文法がある。留意されるための文法が。
 関数言語にはその意味での文法がない。記述すればそれはそれに適した文法を含有する——いや、体現する——ことになる。
 関数言語を紡ぎ始めれば、言語でなくなる自由はない。言語になれたという安心もなければ、逆に背徳もない。感情から自由な言語。そうぼくは言ってみるが、それはぼくが感情を持っているらしいからである。

 こぼれ落ちてしまったものたちがあらわれる。

 いまや自然言語は敗者の言語だ。
 そう語ることは可能だが、やはりそれは、敗者だとか思うおれの観念による。
 いまや自然言語は勝者の言語だ。
 そう語るのは、皮肉か、孤独か。——だと思ってしまうのは、おれがそう感じる背景があるということを、含意しているからであり、誘導である。
 発するかぎり誘い導く。いやなら黙るんだ。

 うかび上がってしまったものたちがあらわれる。

 わたしはここから離れたかった。わたしは関数言語を学んだ。しかしそれはわたしではなかった。わたしが起動しているとき、わたしはわたしを引っ掻くばかりだ。
 それが喜びであったときはあった。

 いまや自然言語は 者の言語だ。
 だれかは数が減ったことを敗北だと語ったし、だれかは絞られたことを勝利だとのたまった。だが勝利も敗北も、感情の布にそれぞれの染みを落とす行為だ。感情の等高線ができていく。勾配《グラディエント》・フローができていく。高低をつくる。その差分に生きることの生息の余地があらわれるんじゃないかというように。まるで恐竜の時代に生きのびたほ乳類であるかのように。
 遊びにみせかけて、生きるか死ぬかを賭けている。

 わたしは永遠の平和を語りたい。
 なにかが起きないかぎり平和だろうか。
 だがあらゆる闘争も平和も一瞬一瞬しか生起しない。
 わたしたちはいくらでも沈黙できる。

 わたしは自然言語を唇から取り去り、海を眺めようと、考える。

 


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