9時の感覚(メモ状態)

 8時台は携帯端末やPCでソーシャルメディアをドライに見ていることができる――身体性を伴わない、フロートしたそちらだけ――。身体性は抽象的で、強い痛みがあれば自覚するが、概念的な強いかなり硬いゴムみたいな管理にある。その管理がほどけるのが9時の感覚だろうか。
 9時は自分の感覚が出てくる。意思的な身体操作とは強く接続していない。その9時の感覚が自由で好きだ。何かしたら転んだり込み入ったものは落としたり言葉が頭の中でできていても口には出なかったりするその9時の感覚が好きだ。

 10時になると体がなめらかに動く。社会性がロードできるようになる。それに対して意思的に向かえるようになる。それは社会人の時間だといえる。社会人というのは会社員のことではない。
 でも9時の感覚が好きだ。

 そして8時の「見ている」から9時の感覚になるまでには二度寝することができる。起きたら9時の感覚になっているのだ。いっぽうで純然たる9時から10時の間に二度寝することを考えると、いったん9時の状態を経ないと10時にはなりにくいと思う(ひどい抵抗感を覚える――曇るような)。

 9時の感覚は深夜二時のそれとも違う。二十二時頃に、全然違うようでいて通じる状態になることがある。二十二時の感覚は様々なキラキラしたものが跳ねていて、華やかだ。中身が疲労であれ。けれどそのとき、9時に通じるものがあることがある。社会性を下ろしていく状態で、夜に歓喜する状態で、だろうか。
 ところで9時の9は算用数字で深夜二時や二十二時の二とかは漢数字で書いているんだがどうするのがいいんだろう。まあニュアンスの違いはある。二十二時のときは漢数字をまとうことができる。9時のときもしたいならできる気がするが玖でもいい。二十二時のときには、退勤後の帰路で直線的な厚手のコートを着たままのようにして、きっとまず自然と直線的な二十二時が浮かぶだろう。弐を選択するにはぽんと跳ぶような挑戦心を伴うだろう。9時のときに九と玖を選ぶのはふたつの格好、漢字的な格好つけから一つを選ぶ感じで、どちらの字を選ぶのもドラゴンにドキドキするのに通じる。
 のんびりした9――と「のんびり」というのも拒むべきなのだろう。何かを投げられる立場を考えるなら。いや8時20分ぐらいの感覚なら拒むかもしれないが、9時半ぐらいなら、その「のんびり」というラベルと、戯れることができる。そして押し出すことができる。

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